ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志の裏側」のコーナーです。
三国志演義と正史を比べるとあまりにも描かれ方が違うので戸惑う場合があります。
例えば今回取り上げる王朗(おうろう)などがいい例でしょう。
三国志の世界の入り口が「三国志演義」の場合が多いので、
どうしても三国志演義で描かれるキャラ設定が強く印象に乗っています。
私もそのひとりです。
この王朗は三国志演義では脇役のなかの脇役ですが、皆さんご存知でしょうか。
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会稽太守の王朗
王朗の名前が登場するのは、孫策が呉で独立勢力となるときになります。
袁術の配下だった孫策は袁術から兵を借りて、長江以南を攻めます。
最後に会稽の王朗を破り、江南一帯は孫策の領土となるのです。
(正史では王朗を倒してから厳虎の順です)
要するに孫策の踏み台にされるだけの存在ですね。
かなり簡単に孫策にやられるので、
シュミレーションゲームにおいても「雑魚」扱いされていました。
死んだと思っていたら生きていて、いつの間にか魏に所属しており、
完全に忘れたころに登場して諸葛亮孔明に戦場で舌戦を挑んで負けます。
こうしてゲームユーザーから見向きもされないとてつもない雑魚キャラと化すのです。
本当は凄い王朗・その1
正史での王朗は一味違います。
黄巾の乱が起こる前年に王朗は名門・
袁氏の袁隗に呼ばれて地方の県令に任ぜられます。
地方の振興を図るためです。
そのために中央から優秀な人材が送られることになったのです。
王朗は若くして徐州彭城国肢菑丘県の県令になりました。
このとき同時に呼ばれたのが劉繇、趙昱、臧洪という将来を期待された面々です。
この当時、州や郡とは違い「国」は皇帝の直轄地で国相が治めていましたが、
彼らは皆、宦官の縁戚ばかりでした。
汚職政治の象徴です。
それを善しとしない王朗は早々に辞表をだして県令を辞めます。
そして徐州刺史の陶謙にその才能を認められて仕えることになるのです。
反董卓連合が結成されたときに王朗は陶謙に進言し、朝廷に金品を献上させます。
陶謙は安東将軍に出世し、王朗は会稽太守に選ばれました。
本当は凄い王朗・その2
会稽太守となった王朗は袁術配下の孫策に攻め込まれ、抵抗するのですが、敗北します。
捕らわれましたが、殺されることはありませんでした。
袁術が皇帝を自称し、曹操が献帝を保護した時期に、
孫策は王朗を曹操のもとに送り出します。
使者として王朗は許都を訪れました。
王朗は孫策の実力をありのまま曹操に伝えます。
曹操は孫策を認め、結果、孫策は討逆将軍となりました。
そして政略結婚によって孫策との姻戚関係を持つことも考えるようになるのです。
諸侯と同盟を結ぶことがほとんどない曹操にしては珍しいことです。
王朗から聞いた話がそれだけ曹操に響いたのでしょう。
その後、儒学を重んじる王朗は、実直な働きぶりを称賛されて朝廷でどんどん出世していきます。
そして三公である司空や司徒にまで登りつめるのです。
王朗の子孫たち
王朗は曹操だけでなく、皇帝となった曹丕や曹叡にも進言しています。
魏を代表する重臣となったわけです。
家督を継いだ息子の王粛も曹叡や司馬師といった政治の中心にいるリーダーたちに助言しています。
王朗の清廉潔白さはどうやら息子たちにも受け継がれたようです。
この王粛の娘が、司馬昭の妻となる「王元姫」です。
彼女もまた道理を重んじる人だったそうです。
王元姫は司馬昭の子を産みます。
その子が三国志を終焉させ天下を統一させる「司馬炎」なのです。
つまり王朗の子孫が天下を統一することになります。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
あの王朗の子孫が天下を統一するなんて、皆さん知っていました?
そう考えると王朗は、三国志の中でもかなり重要なメンバーのひとりといえるのではないでしょうか。
政治力だってもっと評価されてもいいはずです。
王朗は脇役ではなく、雑魚キャラでもないのです。
どうして三国志演義ではこうも扱いが雑になったのでしょうか。
皆さんはどうお考えですか。
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