ちっちゃな英雄曹操(そうそう)、しかし、スケールの大きな彼は
「大きい事は良い事だ」とばかりに、なかなかスケールの大きいモノを保有していました。
それは、一輌で騎兵1万騎に匹敵すると言われた巨大重戦車だったのです。
実際に存在した巨大戦車、どのような姿だったのでしょう。
今回のはじさんは、曹操が持っていた巨大戦車について解説します。
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この記事の目次
戦車は前漢時代に廃れたんじゃなかったの?
中国の歴史に詳しい人なら、疑問に思うかもしれません。
「中国では、春秋戦国の頃までの戦いでは戦車戦が行われていたけど、
遊牧民を相手にするようになると、相手の騎馬に戦車ではついてゆけず、
結局、胡服騎射を採用して戦車は廃れたんじゃないの?」
はい、確かにそうですが、それは遊牧民との戦いの話であって、
平地での漢民族同士の戦いでは、依然歩兵が主力でしたから、
突破力がある戦車は、まだまだ使えたようなのです。
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曹操の魏武註孫子によると三国志の時代にも戦車はあった!
曹操が孫子兵法書に注釈を加えて、余分な部分を省いて十三編にまとめた事は
よく知られていますが、この中で曹操は三国志の時代の軍隊の編成についても述べ、
戦車には軽戦車と重戦車の2種類があると言っています。
そして、軽戦車は馬4頭で引き1000両で一部隊として数える。
軽戦車一部隊には、歩兵を三万人配置するようにして戦車一両に
騎兵10人をつける割合で配置すると言っています。
どうやら、戦車に騎兵をつける事で、小回りの利かない戦車の欠点を補っているようです。
やはり、三国志の時代でも戦車は存在していたみたいですね。
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牛で引く、見張り台付きの重戦車もあった!
さらに曹操は、重戦車(装甲車)についても言及しています。
重戦車は、1台に炊事係2名、衣装係、1名、馬の番人が2名、
これら非戦闘員5名に戦闘員の歩兵が10名の15名で動かす。
軍鼓や階閣を乗せた場合には、馬では引けないので牛を使用するが、
その場合には、馬の番人2名は不用なので、13名で動かす事になる。
これは、凄い、馬では重すぎるので牛で動かす重戦車、
一体、戦場では、どんな働きをしたのでしょうか?
実際の戦力というよりこけおどしの意味が強い重戦車
実際に、こんな重戦車が戦場で活躍したのでしょうか?
しかし、周辺に歩兵10名を配置している事から考えると、
敵に接近されると逃げられなさそうで、お手上げな感じがします。
同時に、衣装係という兵士が奇妙ですが、これは指揮官に、
奇怪な仮面や衣装を着せて、高い所で太鼓を鳴らしながら味方の士気を鼓舞し、
敵の士気を下げる役割を担っていたか、そうでないなら完全な司令塔として
高い位置から、戦争全体を把握する役割を持っていたのではないか?
そのように想像してしまいます。
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重戦車の大きさは、どの程度だったのか?
残念ながら、重戦車は、牛で引かせたとあるだけで牛を何頭必要としたか?
馬を何頭必要としたか?については記述がありません。
では、ありますが、軍鼓を置く櫓や、階閣を設置したという事を考えると
地上、10メートル位でないと置く意味があまりないでしょう。
非戦闘員も最大で5名乗り組むのですから、移動スペースも相当必要です。
雰囲気としては、動く小さな砦という感じだったのではないでしょうか?
三国志ライターkawausoの独り言
魏武註孫子には出現する重戦車ですが、残念ながら正史三国志には、
重戦車が活躍したという記述はありません。
ですが、合理主義者の曹操が意味も無い重戦車について記述を残すとは
思えないので、存在していたのは事実ではないかと思うのです。
実際に重戦車が動くシーンはどんな様子だったのか?
興味は尽きませんね。
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