孔明は第一次北伐戦である街亭の戦い(がいていのたたかい)で敗北。
彼は自らの作戦能力に不備があったと責任を感じて爵位を降格させました。
その後、魏の武都(ぶと)・陰平(いんぺい)の両都市を制圧することに成功した功績によって、
再び丞相のくらいに返り咲くことになります。
しかしこの時呉の孫権が突然帝の位を称することになります。
蜀の群臣達は呉の孫権が帝の位を称したことに激怒し同盟を破棄せよとの言論が、
盛んに行われておりました。
なぜ蜀で孫呉との同盟破棄の言論が盛んに行われることになったのでしょうか。
孫権が帝になる
蜀の諸葛孔明が丞相の位に返り咲いた時、呉の孫権はある重大な決断を行います。
それは帝の位を称したことです。
孫権はなぜ皇帝の位に就任することになったのでしょうか。
彼は以前蜀・呉同盟が復活した時、帝になればいいじゃないですかと
配下達から推挙されたことがありましたが「まだ早いから無理」と言って断っております。
この時断った原因は蜀との同盟が安定していなかったからです。
今回皇帝になった最大の理由は蜀との同盟が安定していると判断したことが
最大のきっかけです。
彼は自らも帝号を称して王朝を開くことによって魏・蜀と張り合うことのできる国であることを
国内外へ証明するために帝の位を名乗ることにしたと考えられるでしょう。
しかし蜀では孫権が皇帝となったことに群臣達が激怒してしまいます。
孫権が帝になることに蜀の群臣達は激怒して・・・・
孫権が帝の位に就任したことを知ると蜀の群臣達は激怒します。
その原因は一体なぜなのでしょうか。
蜀の群臣達が激怒した理由は蜀の王朝が後漢王朝の継承者であることに関係があります。
蜀は劉備が建国した国ですが、彼は中山靖王(ちゅうざんせいおう)である
劉勝(りゅうしょう)の末裔であるとされております。
そのため後漢王朝の最後の皇帝である劉協(りゅうきょう)が、
曹丕に殺害されて皇帝の位を剥奪されたと知ると(蜀でばらまかれた噂であり、
本当は曹丕が劉協から皇帝の位を譲られた)劉備は
後漢王朝を継承して皇帝の位を称することになります。
魏は後漢王朝から皇帝の位を奪ったため討伐対象としているのですが、
呉が皇帝の位を称したとなれば呉も敵であり魏と同様に討伐するべきであると群臣達が、
考えたため孫呉との同盟を破棄して攻撃を仕掛けるべしと唱え始めます。
孔明の対応
孔明は孫権が皇帝の位を称したことを聞くと共に蜀の群臣達が呉と同盟を破棄して
戦うべしと息巻いていることを知ります。
彼は会議の席で群臣と劉禅(りゅうぜん)へ
「孫呉は従来から反逆する心を持っていたのにも関わらず我が国が長年同盟を結んでいるのは、
孫呉と同盟することによって受ける利益が多大だからです。
孫呉と同盟をすることによって我が国が受ける利益を考えてみてください。
まず孫呉と連動して魏へ攻撃を仕掛けることができます。
また孫呉と同盟していることによって孫呉からの攻撃を受けることなく、
魏討伐に専念することができます。
いま孫呉と同盟を破棄してしまえば孫呉と魏両方を相手にしなくてはならなくなり、
蜀の国力では両方を相手にすることは不可能で、
両国から攻撃を受けることになれば蜀の国の存続すら危うくなるでしょう。
これらの利益と不利益を考えればどちらが得策であるのかすぐにわかると思います。」と
説得します。
この説得を受けた群臣達は渋々納得することになり、
孫呉へ祝いの使者を派遣することになるのです。
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三国志ライター黒田レンの独り言
さすがスーパー丞相・諸葛孔明です。
彼の説得のおかげで、孫呉と魏両国と敵対することにならずに済みます。
もし群臣達の言論に合わせて孫呉との同盟を破棄すれば、
蜀の国はかなり危険な状態になったのは間違えありません。
孫権は蜀が孫呉との同盟を破棄することは絶対にないと考えたからこそ、
皇帝の位に就任したのであり、、
彼の状況判断力は並大抵のものではないことが証明されたのではないのでしょうか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など
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