【目からウロコ】魏武註孫子は○○○として編纂された

2017年4月30日


 

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私達が読む事が出来る兵法書、孫子(そんし)は実は曹操(そうそう)

編集したものが最古という事実は、はじさんをいつも読んで下さる読者の皆様には

周知の事だと思われます。

では、曹操はどうして、孫子に注釈を加えて編纂したのでしょうか?

「元の孫子兵法書が色々な人の手を経て、分りづらくなっていたから」

もちろん、それもありますが、曹操が孫子を編集したのは、もっと切実な理由でした。

実は、孫子の兵法は、曹操が軍の将校を養成する為の教科書だったのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操は歴史の先生が出来る程に学問に通じていた

 

曹操は、若い頃の一時期、古学に通じているという理由で、議郎として

霊帝の側近くに仕えていました。

古学は今でいう歴史の事で、曹操は若くして歴史の先生だったのです。

そんな曹操が歴史と同じく研究したのが軍隊の動かし方を教える兵法でした。

 

 

やがて、董卓(とうたく)が洛陽に入り、政治を意のままに操りはじめると、

曹操は反董卓連合軍に参加、歴史の先生から歴史を造る側に転身します。

ところが、中央の一役人だった曹操には自前の家臣団も軍隊もなく、

一生懸命に献策しても、諸侯に鼻で笑われる有様でした。

 

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兗州牧になり、青州黄巾賊を手に入れたが・・

 

地盤の無い曹操は、やむなく袁紹(えんしょう)の配下として東郡の大守となりますが、

やがて、西暦192年、兗州刺史の劉岱(りゅうたい)が黄巾賊に敗れて戦死した

空白を受けて、事実上の兗州牧に推戴され、さらに青州黄巾賊と密約を結んで

30万という軍勢と100万の避難民を取りこむ事に成功します。

 

そこまでは良かったのですが、青州黄巾賊は、太平道の教義しか知らず、

団体生活を送り世間一般の常識など何もない狼のような集団でした。

しばしば、暴走して無用な虐殺や掠奪を繰り返し、曹操の評判を貶めます。

 

事実、曹操は魏武註孫子の謀攻編で以下のような注釈を残しています。

 

「ヤマネコの集まりのような無秩序な黄巾賊など

戦っても戦ってもキリがない

むしろ、荊州の劉表のように安定した組織を持っていて、

下手クソな謀略を仕掛けてくる位が料理しやすい」

 

裏を読めば、これは青州黄巾賊も、こんなものだったとも読めます。

強いがケダモノ同然の黄巾賊を、何とか秩序のある軍団に編成し直すのは、

その青州兵に武力を依存する曹操にとっても死活問題でした。

 

曹操先生閃く、黄巾賊を教育すればいいじゃん!

 

ここで、曹操が考えた打開策は、いかにも歴史の先生らしいアイデアでした。

伝わっている兵法書の孫子を分りやすいように編集してシンプルにし、

黄巾賊から選抜した将校クラスの人間に与えて教育するという事です。

 

魏武註孫子は、曹操の一人称が操であり、孤(君主の自称)を使っていない事から

大体、官渡の戦いに勝利した頃、西暦201年から203年頃までに編まれた

と考えられていますが、曹操はそれ以前から、孫子を研究していて袁紹を撃破して、

一応、政権が安定した、この時期に研究をまとめたと考えられています。

 

しかし、政治、戦争、詩文にプラスして教科書まで執筆しているうえに、

妻も13名いるのですから、曹操は一体、いつ寝ているのだろうと感心します。

 

孫子ばかりではなく、他の兵法書も勧める心憎いサービス

 

曹操は、孫子の本文の中で、生徒が誤解しやすい部分、複雑で分りにくい部分には、

必ず注釈を入れて、具体例を示して理解しやすくしています。

さらに、歴史の知識を活かして、孫子ばかりでなく、司馬法、仁本編などの

別の文献も理解の一助として示し、注釈でも使い、さらに生徒の知識熱を

ステップアップさせるように心憎い工夫が凝らされています。

 

「俺が書いた、魏武註孫子だけを読めばいい」ではなく、沢山の兵書から、

比較検討して兵法の要諦を掴めという姿勢は、教育者としても傑出していて、

いかにも合理主義者で実利を重んじた曹操らしいです。

 

こうして、曹操の軍団は、魏武註孫子を教科書に学んでいき、

ただ、荒々しいだけの軍団から、鉄の規律を持つ、統制が取れた中華最強の

軍団へと変化して行ったのです。

 

呂蒙も魏武註孫子を読んでいた?曹操自慢の一冊

 

さて、そんな曹操ですが、自分が編纂した魏武註孫子が余程の会心の作だったようで

呉の孫権(そんけん)にも、本をプレゼントしていたようです。

 

なんだか、大会社の社長が自叙伝をパーティーなどを利用して関係者に配りまくり

有り難迷惑がられるのに似た感じですね。

 

その様子が窺えるのが、孫権が呂蒙(りょもう)に学問をやるように諭した時の言葉

 

「孟徳は、老いてますます学問が好きになったという、

これからは学問なしではやっていく事は出来ないぞ」で、

 

或いは、この時孫権は、言葉と共に、呂蒙に魏武註孫子を

手渡したのかも知れないのです。

 

その証拠として、同じ頃、呉の沈友(しんゆう)が沈友註孫子を出している事が

挙げられます。

 

 

この沈友は、神童と呼ばれた才人ですが、いわゆる禰衡(でいこう)タイプで、

貴人に嫉妬しその業績をボロクソに批判して才能をひけらかす自己顕示欲の塊で、

その悪癖で孫権まで攻撃してしまい、204年に殺されています。

 

沈友註孫子は、残っていないのですが、沈友の性格から考えて、曹操の孫子に

対抗意識を燃やし書いたという可能性が高いと言えます。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

孫権は、呂蒙に「孫子」「六韜」「左伝」「国語」及び、歴史書の「史記」

「漢書」、「後漢書」を読むように勧めています。

その中で、手持ちの魏武註孫子を、「差し当たって、わしからプレゼント」

とか言って渡したという可能性も無いとは言えません。

 

呂蒙としても、孫権に手ずから本を賜れば、読まないわけにはいかず、

渋々読んだのが、魏武註孫子で、それが分り易かったので、

さらに、次々と書を読破したのかも知れません。

曹操が名将、呂蒙を造るのに、一役買ったとしたら、歴史としては、

かなり面白い偶然と言えるでしょうね。

 

※参考文献 曹操注解 孫子の兵法  中島悟史 訳・解説

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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