蜀の武将・張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)に同情の余地はあるの?

2017年5月6日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志・事件の真相を追え」のコーナーです。

 

 

皆さんは蜀の武将で張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)をご存知でしょうか?

耳にしたことのある方はなかなかの三国志マニアですね。普通は知らないと思います。

 

 

誰と戦った武将だろう?誰に討ちとられた武将だろう?

記憶をたどっている皆さんも多いことだと思いますが、

特に戦場で武功をあげた武将ではありません。

彼らの名前が登場するのは、西暦221年のことになります。

そうです。劉備(りゅうび)が皇帝に即位し、蜀を建国した年ですね。

劉備が呉に攻めこんだ年にもあたります。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西暦219年、関羽(かんう)斬られる

 

それ以前の話になりますが、西暦219年に劉備の義兄弟で荊州の総司令官だった関羽が殺されます。

魏の領土に攻め込んでいる最中に背後を同盟国の呉に襲われたのです。

捕まった関羽は首を斬られました。

怒り狂ったのは義兄の劉備です。

 

 

呉の背信にも腹はたったでしょうが、

旗上げ当時から共に戦ってきた義弟・関羽を殺されたことが何よりも許しがたいことでした。

諸葛亮孔明や趙雲らの静止を振り切って劉備は弔い合戦のために出兵します。

このとき、劉備同様に怒髪天をついていたのが末弟の張飛でした。

 

 

劉備関羽・張飛は旗上げに際し、

「氏素性や生年こそ違うが、これからは苦難を共にし、願わくば同じ時に死にたいものだ」と誓った仲です。

桃園の誓いとも呼ばれています。

その関羽を殺されたことは、自分が殺されたも同然のことだったのです。

 



張飛(ちょうひ)の性質

 

張飛(ちょうひ)といえば、魏の軍師である程昱(ていいく)から

「張飛ひとりで一万の兵に匹敵する」と賞賛され、

また同じく魏の劉曄からは「全軍の中で群を抜く存在だ」とも言われています。

呉の周瑜(しゅうゆ)には「関羽と張飛がいれば大事業も成せる」とまでいわしめました。

そんな天下無双の張飛ですが、部下の扱いは惨かったそうです。

 

 

正史において陳寿は、「乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無い」と張飛の短所をズバリ指摘しています。

北方謙三先生の三国志では、張飛が部下に乱暴なのは、

戦場で生き残るために過酷な訓練をしていたと描かれています。

私はこちらの張飛が大好きです。

ただし一般的には張飛は「パワハラ」キングだったと描かれています。

しかも現代のように改善のために訴える手段もなく、部下は泣き寝入りするしかありません。

この話が本当であれば、部下がとても気の毒です。

 

非常手段に訴えた張達と范彊

 

話は戻りますが、この張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)。

実は張飛の部下なのです。

日頃から受けていた虐待の復讐をするため、上司である張飛の寝込みを襲います。

そしてその首を討つのです。二人はそのまま呉に逃亡しました。

張飛は関羽の仇討ちに参加できずにこの世を去ることになります。

きっと張飛がいればこの後の夷陵の戦いで劉備が大敗することもなかったでしょう。

北方三国志では、そのために呉が暗殺者を蜀に差し向けて張飛を殺した設定になっています。

正史ではその後の二人の消息は不明です。

三国志演義では張飛の首と共に二人は蜀に送り返されて処刑されています。

なんとも悲惨な最期です。

ちなみにこの三国志演義では、関羽の仇討ちの出兵に際し、

兵士全員分の白装束の準備を張飛から二人は命じられたそうです。

 

 

あまりに準備期間が少なく、無理であることを言うと、張飛に棒で殴られ、

できなければ殺すと脅されたといわれています。

皆さんがこの張達と范彊の立場だったらどうしますか?

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

あの偉大なる将軍・張飛を暗殺したことの罪は言い訳無用ですが、どうにも二人が哀れです。

はたして真相はどうなのでしょうか。

今の時代であれば、張飛もまたパワハラという罪を犯していたことにはなりますが・・・。

 

皆さんはどうお考えですか。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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