前漢の時代、皇族である劉氏が大反乱を起こします。
この反乱を呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん)と呼ぶのですが、
この大反乱が勃発した際、前漢の功労者である周勃(しゅうぼつ)の息子・
周亜夫(しゅうあふ)が反乱を一年ほどかけて鎮圧。
そして三国志の時代になるとこの周亜夫の武勇に匹敵するほどの活躍をした人物として、
曹操(そうそう)から褒められた人物がおりました。
その名を徐晃(じょこう)と言います。
彼は関羽軍によって落城寸前にまで追い込まれていた樊城(はんじょう)を救援するために
援軍を率いて出陣し、関羽軍を打ち破ることに成功するのですが、
一体どのようにして関羽の軍勢を打ち破ったのでしょうか。
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樊城救援に赴く
関羽は荊州(けいしゅう)の軍勢を引き連れて、
曹仁(そうじん)が守備している樊城へ攻撃を行います。
曹操は関羽(かんう)の大軍が樊城へ攻撃をしたことを知ると
すぐに于禁(うきん)と龐徳(ほうとく)へ樊城救援を命令し援軍を差し向けます。
しかし于禁・龐徳の軍勢は漢水(かんすい)が氾濫したせいで敗北してしまい、
于禁は降伏。龐徳は関羽に討ち取られてしまいます。
曹操は于禁と龐徳が敗北したことを知ると
徐晃に命じて樊城を救援するように命令を出します。
徐晃はまず樊城を救援する前に前線拠点である偃城(えんじょう)を奪い、
ここを拠点として樊城救援作戦を展開していくことにします。
偽情報を流して敵陣へ攻撃を開始
徐晃は偃城を手に入れると曹操から送られてきた援軍を加えて、
関羽軍の包囲陣に接近していきます。
関羽の軍勢は囲頭(いとう)と四冢(しちょう)二つに軍勢を駐屯させておりました。
徐晃は関羽軍を惑わすために囲頭へ攻撃を仕掛けると関羽軍に情報をわざと流します。
関羽軍は徐晃の情報に踊らされて、
囲頭の守備を厚くし魏軍からいつ攻撃されてもいいようにします。
しかし徐晃は囲頭へ攻撃をするのでなく四冢へ向かって密かに軍勢を動かして、
攻撃を開始。
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関羽軍を打ち破って敵陣を陥落させる
徐晃が四冢へ攻撃を仕掛けたことを知った関羽は、
自ら軍勢を率いて徐晃軍へ攻撃を行います。
しかし徐晃率いる魏軍の猛攻にあい関羽軍は退却することになり四冢は陥落。
徐晃は四冢を陥落させると敵軍の奥地に軍勢を進ませて行きます。
関羽軍の陣営は魏軍が攻撃してきてもいいように、
何重にも逆茂木(さかもぎ=敵の侵入を防ぐために木を尖らせて防御装置)を植えておりましたが、
徐晃は逆茂木を歩兵の攻撃によって除かせて、
次々と関羽軍の陣営を陥落させていきます。
徐晃軍の猛攻によって関羽軍は樊城から撤退していくことになります。
めちゃくちゃ褒めまくる曹操
曹操は樊城の包囲が解除され関羽軍が撤退したことを知ると徐晃を呼び寄せて
「俺も30年以上戦に明け暮れていたが、敵陣に長駆侵入して敵陣を陥落させたのは
君が初めてだろう。
古今の名将である孫武や司馬穰且(しばじょうしょ)を上回る戦功である」と
褒め称えたそうです。
三国志ライター黒田レン独り言
樊城包囲戦の勝利した外的要因は蒋済(しょうせい)や司馬懿(しばい)らが曹操へ
「呉軍を動かして荊州へ攻撃をするのがいいでしょう」と
曹操に進言したことと言えるでしょう。
この結果、関羽の本拠地である荊州南部はすべて陥落し、
本拠地を失った関羽は撤退しなければならない状況に追い込まれてしまいます。
しかし内部的要因としては徐晃の奮戦がなければ、
関羽軍を撃退することはできなかったでしょう。
曹操が褒めたように「前漢の周亜夫に匹敵する名将である」と
言える働きをしたのではないのでしょうか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書3 今鷹真・井波律子著など