馬超が曹操に仕えていたらどうなったの?馬超vs関羽の軍事衝突の可能性も!

2017年6月30日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志・もしもボックス」のコーナーです。

 

 

三国志に登場する英雄たちの中でも「錦馬超」こと「馬超孟起」は人気が高いですね。

なにせあの曹操(そうそう)をギリギリまで追い詰めたという実績があります。

劉備軍に加わり、蜀の五虎大将軍に名を連ねているのもポイントが高いですね。

そんな馬超が曹操に仕えていたらどうなったのか?

可能性がまったくない話ではありません。

現に馬超の父親・馬騰(ばとう)や弟たちは鄴で役人勤めをしていました。

朝廷に仕えていたということは、曹操に仕えていたのも同然です。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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馬超と馬騰のどちらが先に動いたのか

 

父親の馬騰については「正史」と「三国志演義」とは描かれようが真逆です。

正史での馬騰は、曹操に降伏し、人質同然の形で鄴に赴き、衛尉となっています。

曹操はこれで関中は押さえたつもりでしたが、馬騰の長子・馬超が関中の軍閥をまとめあげ、

羌族と手を結び、さらに老練な韓遂(かんすい)を味方につけて反乱を起こします。

 

 

そのため馬騰もその次子・馬休、三子・馬鉄もすべて曹操に処刑されました。

中国において父親殺しは最も重い罪です。

「忠」より「孝」を重んじる国なのです。

馬超はこれで呂布(りょふ)に匹敵する大罪を犯したことになります。

一方、蜀びいきの三国志演義は、話の展開を逆にしています。

馬騰が宮中で曹操暗殺を試み失敗。

父親や弟が処刑されたことに憤り、馬超は反乱を起こしました。

つまり三国志演義での馬超はヒーロー的な存在なのです。

 

馬超はなぜ曹操に背いたのか

 

ここは正史にのっとり考えてみましょう。

馬超がなぜ曹操に対して反乱を起こしたのか、様々な憶測があります。

曹操が漢中の張魯討伐に出兵した際に、ついでに自分たちも制圧されると思い、

先制攻撃を仕掛けたというのが理由とされています。

羌族の血も受け継いでいる馬超が、地方自治を守りたかったからという意見もあります。

赤壁の戦いに勝利した孫権・周瑜と盟約を交わして挟撃した

(周瑜は前年に病没してしまいましたが)という説もあります。

どちらにせよ、父親の馬騰は漢王朝に対して反乱を起こしたことがあるほどですから、

その馬騰が皇帝や朝廷に対して命がけで忠誠を誓っていたという設定は微妙です。

三国志演義の話の展開はやや強引ですね。

馬超は守るために戦ったのか、領土拡大のために戦ったのか、

どちらかが正解なのではないでしょうか。

 

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関羽とぶつかっていたかも

 

曹操にとっては、馬超の武勇、カリスマ性は魅力です。

ぜひとも自分の陣営に組み込みたい人材でしょう。

そうなると夏候惇や夏侯淵並みの待遇になったはずです。

 

 

219年に荊州の関羽が、曹操の領土である襄陽や樊城を攻めます。

曹操は于禁と龐徳を援軍に出し、徐晃に後詰させていますが、

もし馬超が手ゴマとしてあったとしたら話は変わっていたかもしれません。

涼州の平定や漢中攻めではなく、関羽迎撃に馬超を用いたかもしれません。

関羽と馬超は戦ったことがありませんから、ここでドリームマッチが開催されることになりますね。

于禁。龐徳は関羽の水攻めに敗れましたが、馬超はどう対処したでしょうか。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

そもそも馬超が劉備ではなく、曹操に降っていたら、劉備の益州平定は長引いたはずです。

益州牧の劉璋は馬超の降伏を聞いて籠城を解いたからです。

劉備の益州平定が遅れ、曹操の漢中平定が早まれば、

両者の激突はもっと成都寄りになっていたかもしれません。

梓潼、綿竹辺りだったかも。ということは、

劉備は曹操の先鋒である馬超によって滅ぼされていたのではないでしょうか。

馬超は、荊州で関羽と交えるより先に、

益州で張飛・趙雲そして諸葛亮孔明と戦っていたかもしれませんね。

 

皆さんはどうお考えですか。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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