曹操ってもしかしてフェミニストだった?銅雀台の侍妾エピソード


 

銅雀台とは、曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)から

奪った領土である鄴(ぎょう)という都に210年の冬に建造した宮殿です。

ライバルの袁紹(えんしょう)がいなくなり、

当時の最高の権力をもった曹操(そうそう)が建てた宮殿ということもあり、

当時では最高級のハイクオリティな宮殿であったそうです。

 

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銅雀台のエピソード

 

銅雀台におけるエピソードとしては、

三国志演義では銅雀台は宴会場のように催し場所として使われる場面があります。

一方では、そうした催し事以外にも、曹操(そうそう)は死に臨んで、

自身の侍妾達に銅雀台に関して言い遺したエピソードがあります。

今回は三国志演義における銅雀台に関するエピソードについてご紹介します。


そもそも銅雀台とは?建設の流れ

 

196年頃、曹操(そうそう)に促され献帝は許昌(きょしょう)に都を移していましたが、

表向きには都は献帝のものです。

そのため、曹操(そうそう)は鄴(ぎょう)という都を”自身の為の都”としてアレンジしました。

袁紹(えんしょう)撃退記念に、”曹操の都”である鄴(ぎょう)に銅雀台を建設し、

210年に完成したという流れになります。

三国志演義においては、劉備(りゅうび)の軍師である孔明(こうめい)が

「曹操(そうそう)が、超豪華な宮殿の銅雀台を建造して、

帳美人の大喬(だいきょう)と小喬(しょうきょう)の2人を迎えたい、と言っていました。」

等と呉に伝えた時の話で有名です。

210年に完成なので、袁紹(えんしょう)滅亡後、銅雀台を建設開始し、

赤壁の大敗を経て、210年に銅雀台完成という流れになります。

建設に何年もかかっています。

 

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その後の時の流れ

 

三国志演義では、銅雀台建設以降、

赤壁の戦いから勢いづいた劉備(りゅうび)が曹操(そうそう)領となっていない、益州へ侵攻します。

曹操(そうそう)との漢中の戦いを経て、蜀を建国します。

呉の孫権(そんけん)も曹操(そうそう)と戦いを続けます。

曹操(そうそう)もこの頃、魏王を名乗り、三国時代となります。

しかし、呉と魏によって関羽(かんう)は荊州を追われ麦城で散ります。

その後、曹操(そうそう)は病と老いによって、床に就くことになります。

 

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死に臨んだ曹操は・・・

 

曹操(そうそう)の傍には多くの女性がいました。

側室のようなポジションの人も含め、多くの女性が傍にいたそうです。

一夫多妻という状況ですね。

彼女らは、これまで曹操(そうそう)に面倒を見てもらい、

彼と寄り添って生きていきましたが、ここで涙の別れを迎えます。

ここで彼女らの様な妾の視点に立つと、将来的にどうなるのだろう、

とか考えなくもないのですが・・・。

ひとまず、皆臨終間際の曹操(そうそう)を想います。

一方の曹操(そうそう)は彼女らを呼び寄せました。


  

侍妾との別れ

 

この時、曹操(そうそう)は死に伴って、近侍の者に命じて、

日頃蓄えていた名香を侍妾達に分け与え、彼女達にこう言いつけました。

「わたしが死んだ後は、お前達は針仕事を学び、布靴などを作って金銭を得、自活するが良い。」

曹操(そうそう)は自身の死後の彼女達のことも考えていたのでした。

また、そのうちの何人かの侍妾には、銅雀台に住み込み、

毎日の魂祭り(たままつり)を催させるように命じました。

女性の楽人に音楽を奏でさせながら、祭壇に膳を捧げるように命じました。

また、自分の墓所を後世の人に気づかれぬため、

鄴(ぎょう)の周囲に偽の塚を七十二個築くことを遺言としました。

これは、後に人々に発掘されることを恐れたためです。

遺言を述べた後、長い溜息を吐いて、滂沱の涙を流し、その後に息を引き取りました。

後に、侍妾達は銅雀台で生活するようになったとのことです。

 

正史でのエピソード

 

上記エピソードは三国志演義のものです。正史ではどのようだったのでしょうか。

武帝紀によると、曹操(そうそう)は日頃から、

妻妾や周囲のものに自身の胸中を語っていたそうです。

曹操(そうそう)は妻妾達にこのように言っていたそうです。

曹操(そうそう)「もしもわしが死んだ時には、その方らは皆再縁するのだ。

わしの気持を他の者にも伝え、皆に知らせてくれ。」

曹操(そうそう)は自身の死後、妻妾達がどのように生きていくかを考えていたようです。

 

三国志ライターFMの独り言

 

曹操(そうそう)は、自身の死後の自らの侍妾達のことも考えていたようです。

三国志演義のエピソードは、ある程度の脚色が入れられています。

しかし、武帝紀にも同じような発言があったことから、

三国志演義において銅雀台で住み込むようになったという話は、

何かしら実際の出来事を反映したものであり、

銅雀台で生活するようになったエピソードはこの話が元であると考えられます。

もちろん、史実でも銅雀台で住んだとまでは言えませんが、

彼女達のことを最後まで想っていたことに違いは無いのではないでしょうか。

 

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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 

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