司馬懿(しばい)と曹爽(そうそう)に三代目皇帝・曹芳(そうほう)を支えるように、
遺命を下した後に亡くなります。
そして三代目皇帝の時代になると司馬懿と曹芳が、
魏の政権を協力して運営していくことになります。
しかし曹爽は司馬懿を政権から遠ざけて、
自らが魏の政権の運営する中心人物として君臨すると何晏(かあん)や鄧颺(とうよう)らを
加えて政治を行っていきます。
また彼らと仲の良かった夏侯玄(かこうげん)も曹爽に度々進言を行い、
魏の政権に参加しておりました。
彼ら三人は曹爽が政権を握った頃、
人生の中でも絶頂期と言える状態であり色々な人達が彼らへ交際を求めてきますが、
傅嘏(ふか)という人物は決して彼らと慣れ親しむ事をしませんでした。
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父・伯父ともに魏の政権に参加
傅嘏(ふか) の先祖は前漢の昭帝の時代に活躍した傅介子(ふかいし)が有名で、
彼の父である傅充(ふじゅう)、伯父である傅巽(ふそん)らは、
魏の文官として活躍しておりました。
彼も青年期から有名であり、魏の名政治である陳羣(ちんぐん)に推挙されて
魏の政治家として歩み始めることになります。
魏の政治を運営していた曹爽一派を嫌う
魏の三代目皇帝である曹芳が即位して皇帝となると
魏の政権は司馬懿と曹爽が取り仕切っていくことになります。
当初はこのふたりが協力して魏の政権を運営していたのですが、
曹爽の側近である何晏や鄧颺らが曹爽へ入れ知恵したことによって、
司馬懿は政権からはじき出されてしまいます。
そして曹爽が魏の政権を運営していくことになり、
彼の側近であった何晏らも権力を握って行く事になるのです。
また曹爽の従兄弟であった夏侯玄も出世していくことになります。
曹爽が魏の政権を握って彼ら側近が一世を風靡している中、
傅嘏は彼らと付き合うことをしませんでした。
荀粲の心配事
傅嘏の友人であった荀粲(じゅんさん)は彼の家に遊びに行った時彼へ
「君はどうして夏侯玄からの誘いを断ったんだい。
何晏や鄧颺らはどうしようもない人物であるが、夏侯玄は優れた人物ではないか。
君と彼が仲良くしていないのは国家にとって損だと僕は考えるのだが」と述べます。
すると彼は荀粲に本音を漏らします。
夏侯玄は野心があるからダメだ
傅嘏は荀粲の言葉に対して
「夏侯玄は確かに優秀な人だが、自らの才能以上に大きな野望を胸に秘めているよ。
また何晏は弁論が好きで誠実さが足りず、鄧颺に関しては自分に甘く、
名誉と利益を常に求めているような人物です。
彼ら三人はその才能によっていずれ身を滅ぼすことになるのは明白であり、
彼らと付き合ってしまえば、私の身も滅びることになるでしょう」と
付き合わない理由を述べます。
荀粲は傅嘏の言葉を聞いて納得し「そういうことだったのか。君の言うとおりだ」と言って、
彼と付き合ったほうがいいと二度と言わなくなるのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
この傅嘏の発言は後に当たることになります。
曹爽らが皇帝を連れて洛陽(らくよう)を後にした際、
司馬懿が洛陽を占拠してクーデターを行います。
その後司馬懿は曹爽を殺害し、彼らの側近達もすべて殺害してしまいます。
傅嘏の予想通りに展開することになり、恐ろしい程の予見力を持った人物であることが
分かるのではないのでしょうか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書3 今鷹真・井波律子著など
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