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今年もお盆の季節がやってきます、日本の平均的なお盆は墓掃除をして、
御先祖様を自宅にお迎えし、安倍川餅やおやきを備えて、ナスやきゅうりに
割り箸を差して造った馬を飾ったり、送り火や迎え火を焚いたりします。
このようなお盆の風習は中国から伝わったものなのですが、
三国志の時代のお盆は、今とは全く意味合いが違うものでした。
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この記事の目次
旧暦の7月15日は元々、道教の祭典 中元の日だった
実は三国志の時代の旧暦7月15日はお盆ではなく中元と呼ばれていました。
中元とは、上元、中元、下元の一つで道教の風習だったのです。
それによると、道教には天官大帝、地官大帝、水官大帝という神様がいて、
天官大帝は、毎年、旧暦1月15日の上元の日に地上に降りてきて、
人々の福と罪を選定して福を与える事になっています。
次に地官大帝が旧暦7月15日に地上に降りて、人々の福と罪を見極め罪を許します。
最期の水官大帝は、旧暦10月15日に地上に降りてきて、
人々の福と罪を定めてその禍を払う神様とされてきました。
このような三官の信仰は、前漢の時代末にはすでにあったと言われています。
ですから、三国志の時代の人々は、旧暦7月15日には、地官大帝を祀り、
様々な行事を行って機嫌を取り、地獄の神でもある地官大帝に亡くなった人々を含む
全ての人間の罪を許してもらおうとしたのです。
日本では、どういうわけか、中元だけが残り、今でも、親しい人や
お世話になった人にお中元という贈物を交換しあう日になっています。
三国志の直後の時代に盂蘭盆会が入り込んでしまう
このように、三国志の時代にはお盆という習慣はなく地獄の神である、
地官大帝の機嫌を取り、死者と生者の罪を許してもらおうという行事だけでした。
ところが、この行事に三国志の時代の直後、魏晋南北朝時代に広がった
中国仏教が信者獲得と布教の為に目をつけました。
それが、盂蘭盆会(うらぼんえ)で略してお盆です。
元々、中国仏教では、祖先の霊を供養するという行事を行っていましたが、
そのままではあまり普及しないので、元々ポピュラーだった道教のイベント、
中元の贖罪に便乗して旧暦7月15日を盂蘭盆会の日としたのです。
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インド仏教には先祖供養はない!中国発祥の盂蘭盆会
しかも、インドで産まれた仏教には、元々、天国も地獄もなく、
あの世の概念も、もちろん先祖供養という考え方もありませんでした。
これらの行事は、死者の埋葬に手厚い中国でインド仏教が変質し、
中国人の習慣に取り込まれる形で出来たようです。
西晋の竺法護(じくほうご:239~326年)が書いた
盂蘭盆経(うらぼんきょう)によれば、盂蘭盆会の始まりは以下の通りです。
昔、釈迦の弟子の目連(もくれん)が神通力を使って、
亡くなった母の様子を見ると、生前欲深かった母は天国どころか餓鬼道に落ち、
毎日、飢えと渇きに苦しめられていました。
哀れに思った目連が水や食物を与えても、母の口に入る前に食物に火がつき
水も蒸発し、炭しか食べる事が出来ません。
目連が、たまらなくなって釈迦に相談すると、
「それは、お前一人ではどうにもならないことだ、、しかし、
安居(室内修行)が明ける最期の日に、出家した修行僧全員に、
お前が食物と水を振る舞うなら、その喜びが餓鬼道にも
こぼれ落ちて、餓鬼となった母を救えるかも知れぬ」
目連はそれを聞くと、安居の明けた修行僧全員に食事と水を振る舞いました。
修行僧は喜び、その喜びは餓鬼道にも伝わり、キラキラしたオーラを浴びた
目連の母は、一瞬で餓鬼の姿から解き放たれ昇天したという事です。
盂蘭盆経はインド仏教に原典がない?
いかにも、もっともらしい仏教説話ですが盂蘭盆経はインドには原典がなく、
中国語で書かれたものしか現存しないので、竺法護が創作したものではないか?と
考えている学者もいます。
インド仏教には盂蘭盆の元になった、ウランバナという言葉はありますが、
先祖供養の行事ではなく、逆さ吊りと言う意味のようです。
また、最近の説では、古代イランのアヴェスター語で霊魂を表すウルヴァンが
盂蘭盆会の語源であり、それが中国の祖霊信仰と重なったという説もあります。
しかし、前述した通り、仏陀が興した初期の仏教は、あの世も天国も地獄も
語っていないので、元々、盂蘭盆会は、先祖を厚く尊ぶ中国人の気性を考えて、
中国仏教が創作した行事なのではないか?と思われます。
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盂蘭盆会以前から、中国には墓掃除の習慣があった
こうして、中国仏教が中元と盂蘭盆会を意図的に混ぜた為に、両者の境は曖昧になり
現在の中国では、盂蘭節に先祖と鬼(先祖ではない死者)を共に供養しています。
元々の、地官大帝の機嫌を取って、生者と死者の罪を許してもらうという意味合いは、
亡くなった人を供養して慰めるという方向にすり替わってしまったようです。
しかし、三国志の時代以前から、中国人は死者の為の立派な墳墓を造り、
墓掃除を行って食事を捧げるという事を行っています。
例えば、呉の孫皓(そんこう)の時代の豫州大守の張俊(ちょうしゅん)は、
孫皓死亡説を真に受けてしまい、次の皇帝は孫奮(そんふん)だと早合点して、
孫奮の母の仲姫の墓を勝手に一生懸命に掃除し、それを誰かに密告されて
孫皓により反逆罪で処刑されてしまいました。
この故事を見ると、仏教が根付く以前から、中国人は、
現在のお盆に近い事をやっていたという事が確認できるのです。
また漢の時代、大みそかには、青竹を火の中に投げ込んで破裂させる
文字通りの爆竹の習慣もありました。
これは、この日に山から、悪鬼が降りてきて郷で悪さをするので、
爆竹でびっくりさせて追い払うという意味です。
一方お盆には、地獄の蓋が開いて亡者がこの世にやってくるとされ、
中国では、亡者を追い払う時に、かつては爆竹を使っていました。
時期は違いますが、お盆と、かつての大みそかの中国の習慣には、
やはり共通点を見出す事が出来るのです。
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司馬懿のクーデターを成功させたのも墓掃除だった!
西暦249年の正月、当時の魏で権力を握っていた曹爽(そうそう)と
曹羲(そうぎ)兄弟と取り巻き、そして少帝曹芳(そうほう)は前の皇帝である
曹叡(そうえい)の陵墓、高平陵(こうへいりょう)を墓参しています。
その隙を突き、ボケたふりをしていた司馬懿(しば・い)は蜂起し
息子の司馬師(しば・し)、司馬昭(しば・しょう)と謀り、洛陽の軍事力を掌握して
クーデターを起こし曹爽一派を粛清しました。
意外な事実!三国志の時代のお盆は死者の為に懺悔する日だった!
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