蒼天すでに死す黄天正に立つべし、三国志のハイライトはこちらのスローガンと共に黄巾の乱から開始します。それは、誰でも知っていますが、挙兵半年程で張角(ちょうかく)が病死。
黄巾賊は、求心力を失い尻すぼみに鎮圧されましたから、その軍隊としての内情などは、ほとんど記録に残りませんでした。例えるなら、ダッダーン、ボヨヨン、ボヨヨンのCМが強烈すぎて、どんな商品を紹介したものだったのか記憶にないようなものです。そもそも、黄巾賊の首領である張角には列伝もなく、その記述は後漢書の皇甫嵩(こうほすう)伝、霊帝(れいてい)紀、そして、陳寿(ちんじゅ)の正史三国志、孫堅(そんけん)伝にある記述を纏めたものです。
そこで、今回のはじめての三国志では、三国志への道を開いた黄巾賊が、どんな軍団だったかを解説してみたいと思います。
黄巾党を分かりやすくミエル化してみた
では、早速、張角の苦心の力作である黄巾軍をミエル化してみましょう。それは上図のような組織になります。
※この図は後漢書の皇甫嵩伝の記述を参考に作成してあります。
まず、組織の首脳は、張角、張梁(ちょうりょう)、張宝(ちょうほう)の3人であったようです。それぞれ、張角が天公将軍、張宝が地公将軍、張梁が人公将軍と名乗りましたがTOPである張角は、乱のときには、すでに死の病に冒されており、実質的な指揮は張宝が行っていたようです。
三十六に分かれた渠師と呼ばれる将軍達
そして、三人の首脳の下には、三十六人の渠師(きょし)と呼ばれる将軍がいました。この渠師は、方(或いは坊)と呼ばれる7000~1万人の信徒を率いています。黄巾賊に関しては、馬元義(ばげんき)や唐州(とうしゅう)、張曼成(ちょうまんせい)波才(はさい)のような関連人物が出ますが、或いは、このような渠師というランクにあった黄巾賊の武将かも知れません。
実際の反乱では、三十六人の渠師以外にも、部外者の山賊も乱に盟約で或いは火事場泥棒的に参戦しているので、実際の総数は三十六万以上になったであろうと考えられます。もちろん、これは黄巾賊の総数ではなく戦闘員ではない女子ども、老人は別であったと思われます。曹操は青州黄巾賊を吸収した時に、百万人という非戦闘員も得ていますが、この人たちが黄巾賊の非戦闘員だったのでしょう。
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共同生活を営んだ黄巾賊の鉄の兵士
三十六人の渠師の下には「方」に属している、七千人から一万人の信徒がいます。黄巾賊の教義は、当時の一般的な人々の生活からかけ離れていたので、同居する事は出来ず、迫害された黄巾賊の信徒は自分達だけで共同生活を行い、閉鎖的なコミュニティを築いていきました。その中で、自然に組織が生まれ、方の原型が成立していったと考えられます。
やがて、黄巾賊の中で結婚する男女が現れ、生まれた子どもは、黄巾賊の教義だけを教え込まれて、コミュニティを守る兵士と化していきます。曹操(そうそう)は、魏武註孫子の中で、黄巾賊を野良犬のようなものと形容し、ただ、乱暴なだけで何も考えがなく、幾らでも湧いてくると書いています。
固体では、大して強くはないのでしょうが、味方だけを庇い、命令通りに何でもやるという態度は、宗教に起因する兵士の特性を持っています。実際に、青州黄巾賊は曹操軍に併合されても、しばしば軍律を破り、負けた自軍からも略奪をしている事が于禁(うきん)の伝に出ているのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
有名だけど、イマイチ、内情が分からない黄巾賊についてミエル化しました。黄巾賊の野望は、直ぐに頓挫しますが、それを受け継いで暴れる、黒山賊や白波賊が頻発し、後漢王朝の権威は失墜していきます。そして、官軍の質の低下を補う為に、後漢が呼び寄せた義勇軍が、やがては、自前の勢力を持つようになり、群雄割拠の時代が始まるのです。
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