kawauso編集長が考えるに、この世界に必要なのは透明化なのです。
それは、三国志ですら例外ではありません。
文章の嵐で、つい分かったかのような気になる三国志ですが、
実は細かい部分は、まるで分からないという事はとても多いのです。
そこで今回は、地味な劉表(りゅうひょう)政権の組織のミエル化に
チャレンジしてみましたよ。
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荊州軍閥、蔡瑁&張允、そして、参謀の蒯越の手柄の劉表政権
では、今回も恒例、劉表政権をミエル化してみましょう。
ご覧の通り、TOPには、荊州牧、鎮南将軍、あと仮節とか色々持つ劉表、
左右には、劉表の息子の劉琦(りゅうき)と劉琮(りゅうそう)がいます。
その下にいるのが、荊州のベスト4にあたる、蒯越(かいえつ)と蔡瑁(さいぼう)と
蔡瑁と張允は、荊州の軍閥の蔡家の有力者で、姉を劉表の妻にするなどで、
結びついているというのは、よく知られています。
一方の蒯越は、東曹掾として元々、何進(かしん)に仕えていましたが、
宦官の殺害を進言して容れられず、後難を恐れて汝陽の令として、
荊州に赴き劉表配下になった人です。
謀略と弁舌を駆使して劉表に対立していた地方官や豪族を
バカバカ攻め滅ぼしたり降伏させています。
劉表は兵力を蔡瑁から借りて、知恵は蒯越から
借りたと言えるかも知れません。
もう一人の文聘は、荊州の北部を守っていた大将とあるので、
魏の方面を見ていた武将だと言えるでしょう。
曹操に許され、魏では後将軍にまでなっているので、
相応に地位があった人であると考えて、蔡瑁や蒯越と同格にしました。
中堅で敵を撃破した人々
その下には、主に地方の太守だった人々が並んでいます。
劉表の配下で一番有名なのは黄祖(こうそ)で、たまたま孫堅(そんけん)を討った為に、
首を討たれた可哀想な人物です。
その支配下に益州で反乱を起こして、荊州に落ちてきた甘寧(かんねい)がいます。
黄祖の隣にいる劉磐(りゅうばん)という人は長沙郡を守備した人で、
劉表の姻戚ですが、勇猛な人物で、度々、孫呉の領地に侵攻した程でした。
その為に、孫策は太史慈(たいしじ)を建昌都尉として、対抗させたので、
劉磐は、歯が立たなくなり、侵攻を差し控えたようです。
その隣は、霍峻(かくしゅん)で、兄の霍篤(かくとく)が集めた私兵団を
兄の死後に引き継いで率いていたそうです。
劉表政権が倒れると劉備に仕え、益州攻略等で活躍しました。
さらに隣の韓嵩(かんすう)と劉先(りゅうせん)は、
曹操の力の大きさに屈服して劉表に降伏を勧めたという人物ですが、
零陵太守と武陵太守です。
黄祖を逃がして戦死した 劉虎・韓晞
中堅どころの下には、どこに位置付けていいか分かりませんが、
5000名の長矛兵を率いて、黄祖の救援に向かった
劉虎(りゅうこ)・韓晞(かんき)がいます。
奮闘して、黄祖は逃がしたものの孫策軍の猛攻の前に、
二人とも戦死してしまいました。
劉虎は、劉表の従子のようなので、地位は高いのかとも思いますが、
韓晞の出自がよく分からないので、中堅より下にしました。
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この頃は、一番下?甘寧、黄忠、向朗
末端にあたるのは、太守の下に位置する武将です。
黄祖の使い走りとして、幾ら手柄を立てても褒美も昇進もなかった甘寧や、
劉表政権下で、中郎将でしたが、長沙太守の部下だった黄忠(こうちゅう)を配置します。
向朗(しょうろう)は、臨沮県長でしたが、後に劉備(りゅうび)に仕えてからは、
行政手腕を認められ、孔明(こうめい)の死後には、左将軍まで出世しています。
黄忠も劉備に仕えてから運が向いて、後将軍になっていますし、
甘寧も、西陵太守・折衝将軍になっているので、ここは出世頭が奇しくも、
揃っていたという事になりますね。
三国志ライターkawausoの独り言
いかがだったでしょうか?推測も込みで、劉表政権の序列をミエル化してみました。
ランクづけすると、蒯越が蔡瑁と同列に近い扱いだったり、文聘が荊州北部で、
対魏戦線に向けられ、大将であった事など、これまで見えなかった部分が見えてきて、
なかなか面白いものではないでしょうか?
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—