揚州に強大な勢力を作り上げ、三国志の一角を占めることになった孫呉。孫堅(そんけん)・孫策(そんさく)の跡を継いだ孫権が建国した国であり、周瑜(しゅうゆ)や魯粛(ろしゅく)などの軍人や顧雍(こよう)、諸葛瑾などの文官達がいたおかげで強力な国家を形成していきます。
では孫呉のラスト・エンペラーで暴虐皇帝の名前をほしいままにした孫皓の時代には、孫権のような優れた軍人や政治家達はいなかったのでしょうか。そんなことはありません。今回は孫皓の時代に孫呉を支えた二陸と言われる人をご紹介したいと思います。
この記事の目次
ラスト・エンペラー孫皓を支えた孫呉の陸抗(りくこう)
父譲りの軍略と政治力を発揮した陸抗(りくこう)
孫呉のラスト・エンペラー孫皓は気に食わない臣下がいるとすぐに殺害してしまったり、会見の時に自らを見てくるような人物がいれば殺害していました。そのため孫呉の臣下達は恐怖で皇帝へ提案や進言をする人物が居なくなってしまいます。このような暴虐な皇帝・孫皓ですら遠慮しなくてはならない人物がおりました。
その人物こそ父・陸遜譲りの軍略と政治力を発揮して、天下の九割以上を支配下に収めていた晋の侵攻を荊州(けいしゅう)で食い止めていた陸抗(りくこう)です。もうひとりは陸抗と同じ一族で孫呉の内政を一人で切り盛りしていた陸凱(りくがい)。暴虐皇帝・孫皓もこの二人には頭が上がらず、黙って二人のいうことを聞かなくてはなりませんでした。ここでは陸凱ではなく陸抗についてご紹介しましょう。
ズバリと遠慮なく暴虐皇帝に向かって提案
陸抗は孫呉の宰相・歩騭(ほしつ)の息子歩闡(ほせん)が晋に寝返った時、晋の名将・羊祜(ようこ)と激闘を繰り広げ羊祜率いる晋軍を撃退することに成功し、歩闡を討ち取っております。その後は羊祜と積極的に交戦することをしないで親友としての関係を作り上げ、名言として「羊陸之交(りくようのまじわり)」と後世に言われるほど仲が良かったそうです。
陸抗は羊祜と親友関係を築いていきながらもしっかりと荊州を統治し、中華の九割以上を専有していた晋に攻撃をさせませんでした。これほどの戦略と土地を統治する政治力を持っていた陸抗。暴虐皇帝・孫皓に対して政治とはかくあるべしと直球で提案しておりました。一体どのような提案を孫皓にしたのでしょうか。
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つまらない人物を重く用いてはならない!!
陸抗は孫皓が宦官を重く用いている事を知って手紙を書く事にします。陸抗は孫皓へ「最近宦官を重く用いているそうですがなやってはならない事です。宦官は讒言を行い悪いことをやるのは堯帝(ぎょうてい)の時代から、警戒するように言っております。また秦や漢も宦官の悪事によって国家は転覆しているのです。
なぜ宦官を重く用いるのはダメなのか。それは宦官には道理が分からず、重く用いても官職に耐えるだけの能力がないからです。更に宦官は自分に不利なことが起きそうになるとどんな悪いことでも、平然と行う奴が多いからです。皇帝陛下には上記の事をしっかりと考え宦官を重く用いないようにしていただきたい。
孫呉には人物がいないとはいえ、先祖代々家を継いでしっかりとした人物おり、重く用いて任務を与えても堅実にこなしていくでしょう。このような人達へ官職を与えて重く用いればこそ孫呉の国力は上昇していくことになり、天下の九割を占めている晋の攻撃を受けても跳ね返す強靭な国家が誕生するのです。」としたためて送ります。孫皓は陸抗の手紙を見てイラっとしますが、荊州の軍権を剥ぎ取って殺害するような事をしないで聞き入れるのでした。
もし孫皓が陸抗以外の人物から同じような事を言われたら、すぐに処刑してしまったと思います。しかし陸抗だからこそ孫皓に強い言葉を用いて諌めても意見が、聞き入れられたのだと思います。暴虐な皇帝の元でもしっかりと国家の事を考え支えていた人物と言えるでしょう。
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ラスト・エンペラー孫皓を支えた孫呉の二陸その2:丞相となって何度も暴虐皇帝を諌めた気骨ある政治家・陸凱
ラスト・エンペラー孫皓を支えた孫呉の二陸・最後の一人は孫皓の時代に丞相となり、暴虐と言われた皇帝・孫皓へ何度も諌めた気骨ある政治家・陸凱(りくがい)です。陸凱は陸遜の一族であり、孫権の時代に諸県の長を務めて実績をあげます。
その後異民族討伐で武功を挙げ諸葛誕(しょかつたん)の反乱が起きた際には、援軍として寿春で戦っております。陸凱は孫皓が皇帝として君臨した際今までの勲功が認められて丞相の位を与えられます。陸凱は丞相として孫呉の政治を切り盛りすることになると暴虐な皇帝と化していた孫皓へ何度も注意を行います。
「君主と臣下が互いに顔を知らなければどうやって不測の事態に駆けつけるのか」
孫皓は他人に見られることを好まなかった為、孫皓が出席して行われる会議では臣下が自分の顔を見ないよう命令。陸凱はこの命令を聞いて孫皓へ真正面から「君主と臣下が互いに顔を知らなければどうするのです。もし不測の事態が起きたらどうやって駆けつけるのですか。」と孫皓へ直訴。
孫皓は陸凱の直訴を聞いて反論することができず、陸凱の意見を聞き入れるのでした。このように陸凱は暴虐な振る舞いをする君主・孫皓へ怯むことなく、自分の意見を押し通していた気骨ある政治家です。もう一つ陸凱の気骨ある政治家であったことを紹介しましょう。
首都移転に大反対
孫皓は孫呉の首都・建業(けんぎょう)を捨てて、長江(ちょうこう)沿いにある武昌(ぶしょう)に首都移転を決定。陸凱は首都移転に際して大反対します。しかし孫皓は陸凱の意見を無視して実行に移すのでした。陸凱は武昌に拠点を移転した後民衆から不満の声が相次いで届いていることを知ります。
ある民衆は「武昌に年貢を届けるのは遠くて非常に大変だから困る」や「武昌に住むのは嫌だ。元に戻してくれ」などの不満を述べていたそうです。この声を聞いた陸凱は孫皓へ「武昌の地は危険が多く、土地もやせ細っており収穫する物も無く首都としての機能を全く備えていません。また陸に住まいを造ろうとしても土地が険しく平らな場所がないため、民衆は首都へ来ることができません。
更に民衆の間には『武昌の魚を食うぐらいなら建業で水だけ飲んで生活していたほうがいい』との歌が流行っているそうです。この事から私は武昌を放棄して、元の建業へ首都を移転したほうがいいと考えます。どうか陛下には武昌と建業どちらが首都として、便利であるか考えていただきたいと思います。」と意見を述べます。
孫皓は陸凱の意見や他の文官達の意見もあって武昌から再び首都を建業へ戻すことになるのでした。暴虐な皇帝・孫皓にしっかりと意見を述べて孫呉の政治を支えた陸凱こそ孫呉の最後の優れた宰相と言ってもいいのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は孫呉の後期に光を当ててご紹介させていただきました。孫呉は孫権死後盛り上がんなくてつまんないと思っている人も多いのではないのでしょうか。それでも孫亮の時代には東興の戦いや寿春の戦いなど対外との戦もあり、孫休の時代には権力を握ってやりたい放題やっていた孫綝(そんちん)を追放して、権力を皇帝に取り戻す内部的な権力争いもあり一応見どころがあります。
しかし孫皓の時代はあまり見どころと言える部分も少なく、孫皓の時代に何が起きたのか、またどのような人物がいたのかを知っている人はあまり多くないでしょう。しかしここで紹介した陸抗・陸凱のように暴虐な皇帝・孫皓に仕えて、国家を支え続けた人物もおりますので、これをきっかけに孫呉の後期にも興味を持って頂ければと思います。
参考 ちくま学芸文庫 正史三国志・呉書 小南一郎著など
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