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【衝撃の事実】邪馬台国の重臣・難升米(なしめ)の子孫が大和朝廷の重臣だった?

2017年12月10日


 

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こんにちは。コーノヒロです。前回に引き続き、「邪馬台国」の重臣・難升米(なしめ)についての謎に迫る記事を書いていきたいと思います。よろしくお付き合いください。

 

 

実は、その難升米の子孫が大和朝廷で重臣になっていたという説があるのです。しかも、かなり地位の高い重臣でもあった一族という説なのです。ということは、邪馬台国の関係者が、大和朝廷の創建に深く関わっていたということでしょうか?つまりは、邪馬台国の難升米は、卑弥呼亡き後、邪馬台国を裏切り、新国家「大和朝廷」樹立へ向けて暗躍したのでしょうか?深まる謎に迫っていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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難升米は「大伴家持」の先祖?!

 

まず、確実視されているのは、難升米の子孫が、大和朝廷の豪族の「大伴氏」だったいうことです。大伴氏といえば、大和朝廷の中でも重臣の位置にいた一族です。つまり大伴家持(おおとものやかもち)の先祖ということになります。大伴家持と言えば、日本最古とされる和歌集の『万葉集』を編纂した人物として有名ですが、大伴氏は代々、武に秀でた豪族として知られています。

 

大伴氏の遠祖は、『古事記』『日本書紀』(=二つ合わせて「記紀」と呼ばれることもある。)に出て来る「天忍日命(アメノオシヒノミコト)」とされています。その「記紀」の中に、アメノオシノヒミコトの子孫が大伴氏という記述があるのです。「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」の孫の「邇邇芸命(ニニギノミコト)」の天孫降臨の際に、伴ってやってきたとされています。又、万葉集の大伴家持の長歌で、自身の遠祖がアメノオシノミコトであると歌っています。

 

つまり、「アメノオシヒノミコト=難升米」だったということでしょうか。以前の記事で、卑弥呼は「記紀」に出て来る、アマテラスオオミカミだったかもしれないという説を紹介しました。その説を採用しますと、このようなお話ができるでしょうか。

 

 

 

アマテラスオオミカミである卑弥呼が、ニニギノミコトという後継者を引き連れて、朝鮮半島からやってきて、邪馬台国の王位につきました。そして、出雲や大和方面にも領土を拡大しました。その後、邪馬台国の首都も広大な大地のある大和地域へと遷都したのです。それでは、アメノオシミコトである難升米は何処にいたでしょうか?

 

 

難斗米(なしめ)の墓は京都にあった?

 

まず、山城(現在の京都府)の南部の木津川市付近にある「椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)」は大伴氏の墓と伝わっているようです。つまり、難升米の子孫の墓ということになります。古墳の中の埋葬品の鏡は、九州から関東の古墳でも発見されています。かなり広い地域に分有した部族の墓であると考えられ、すると、大伴氏が浮上するということなのです。さらに突っ込んで、こんな説まで飛び出してきます。その椿井大塚山古墳は、難斗米自身の墓だというのです。

 

つまり、墓の所在地は京都南部にあった訳ですから、邪馬台国の領域は大和地域にまで達していたということになります。邪馬台国は、卑弥呼の時代にすでに日本列島の半分以上の領土を獲得していた可能性が大いにあります。すると、その邪馬台国の後継勢力が「大和朝廷」になるということでしょうか?しかし、邪馬台国から「大和朝廷」に至るまでには空白期間があります。

 

邪馬台国滅亡後の日本列島は、再び倭国大乱に陥り、大きな戦が繰り返されたという事実だけ分かっています。どんな大乱があって、どのようにその乱が治まったのかの詳細は未だに謎なのです。しかしながら、少し想像を膨らませてみてお話していきます。

 

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卑弥呼死後、難升米は邪馬台国を裏切ったの?

 

まず、難升米は、卑弥呼王制の末期、北九州にいた、しかも伊都国(いとこく)あたりにいた可能性が高いでしょう。前回の記事にも書きましたように、大陸の「」帝国との調整役であり、対「狗奴国(くなこく)」戦争の大将軍的な立場だった訳ですから、北九州付近に布陣し続けるのは、南九州にあった可能性の高い狗奴国への牽制のため、当然とも考えられます。

 

おそらく、卑弥呼死後の後継者の争い時は、蚊帳の外というより、情勢を見守っていたことでしょう。狗奴国との戦争は、この時点で勝負がついていたかと思われます。邪馬台国に軍配が上がっていたでしょう。そうでなければ、邪馬台国内で後継者争いをしている余裕はなかったでしょう。ただし、狗奴国の残存勢力もあったでしょうから、それに対する牽制のため、軍や部隊は駐屯する必要があって、難升米大将軍率いる、邪馬台国の本隊とも言うべき軍はそれを任されていたのではないでしょうか?

 

さらに言いますと、大陸の「魏」帝国や朝鮮半島の国々の目もあって、大陸の玄関口の北九州からは見動きが取れなかったことでしょう。特に大陸では、この時期、「魏」帝国から「晋」帝国へと移行しようとする節目だった訳です。様子を注視したのも当然でしょう。

 

しかし、その混乱も、台与(とよ)が邪馬台国女王として、後継に着くことで治まり、ことなきを得ます。そのあたりに、難升米が生きていたかは定かではありませんが、おそらく、難升米の後継者も北九州に布陣し続けたことでしょう。邪馬台国軍の大将軍が布陣し、周辺国を監視するという形だったと思われます。ちなみに、難升米は、死後、前述のように京都南部の木津川市近くの椿井大塚山に葬られた説があります。一国の大将軍の立場だったので、国葬として大事に見送られたということでしょうか。難升米の子孫は、しばらくの間は北九州に陣取っていたかと考ます。

 

関連記事:倭国 「魏志倭人伝」 から読み取る当時の日本、邪馬台国と卑弥呼を分かりやすく解説

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邪馬台国

 

 

難升米の子孫が邪馬台国を滅亡させた?

 

前段の記述のように、難升米の後継の一族は、しばらく北九州あたりに陣取っていたでしょう。そこは、後世の「太宰府」にあたる訳ですから、大陸からの玄関口であり、諸外国との戦となれば最前線になる所だった訳です。大陸から入ってくる正確な情報を見分けて慎重に構えていたでしょう。

 

しかし、台与の即位によって安定を保つかに見えた邪馬台国の統治も約二十年か?で終わりを告げたのです。そして、再び内乱が勃発しました。その機に乗じ、難升米の一族(子孫)は大和へ移動したのではないでしょうか。日向にいた、ある人物をお守りするという立場で。その人物こそ、初代天皇「神武天皇(じんむてんのう)」を指すのではないでしょうか。ですから、難升米の一族が邪馬台国を直接滅ぼした訳ではなさそうです。

 

前回記事:【3分で分かる】卑弥呼の重臣・難升米(なしめ)とは何者なの?

 

 

三国志ライター コーノ・ヒロの独り言

コーノヒロさん(はじめての三国志ライター)

 

邪馬台国女・台与の死により、邪馬台国政権内部で再び権力争いが起き「第二次倭国大乱」という時代に突入したのです。中世の日本の「戦国時代」と似たような状況だったでしょう。その時代に、天下を制するべく、九州に陣取っていた日向の国の「カムヤマトイワレビコノミコト」(後の神武天皇)が大和へ向けて遠征(=東征)したという話が伝わっています。

 

このあたりのお話は、次回『古事記』などを題材にして紐解いていきたいと思います。邪馬台国滅亡後から大和朝廷成立までを追ってみたいと思います。お楽しみに。

 

《参考》

 

◆『新訂 古事記』

(角川ソフィア文庫)

 

◆『マンガでわかる古事記』

志水 義夫著(池田書店)

 

◆『清張 古代遊記 吉野ケ里と邪馬台国』

松本清張 著(NHK出版)

 

◆『卑弥呼は狗邪国から来た』

保坂俊三 著(新人物往来社)

 

関連記事:曹真が余計な事をするから邪馬台国の場所が特定出来なくなった?

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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 

 

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コーノ・ヒロ

コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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