曹操軍の中で一番早い部隊を率いた夏侯淵(かこうえん)。
三国志を知っている方なら一度は耳にしたことのある武将だと思います。夏侯淵といえば定軍山(ていぐんざん)の戦いで、蜀(しょく)の五虎将軍(ごこしょうぐん)の一人・黄忠(こうちゅう)に、討ち取られたイメージが強いと思いますが、曹操(そうそう)の初期から仕えた曹操軍団の重鎮です。
今回は曹操軍団の重鎮・夏侯淵にまつわる衝撃の事実をご紹介しましょう。
衝撃の事実:夏侯淵実は曹操と一緒に戦っている回数よりも賊徒討伐の方が多かった!!
魏の重鎮・夏侯淵にまつわる衝撃の事実。それは曹操と一緒に戦っている回数よりも、単独で賊徒討伐している回数の方が多いのです。正史三国志(せいしさんごくし)・魏書(ぎしょ)によると、夏侯淵が曹操と一緒に戦った回数は、曹操が挙兵した当時と曹操のライバルで、当時最大兵力を保有していた袁紹(えんしょう)と戦った官渡(かんと)の戦い関中(かんちゅう)の豪族達の連合軍を率いた馬超や韓遂の残党討伐戦などあまり多くありません。
夏侯淵は曹操と一緒に戦った回数が少ないのに対して、単独で賊徒討伐や残党討伐戦の回数の圧倒的に多いのです。さて夏侯淵が討伐した賊徒の討伐履歴をご紹介しましょう。
夏侯淵の討伐履歴
夏侯淵の討伐履歴は昌豨(しょうき)討伐戦から始まります。夏侯淵は昌豨討伐戦では五将軍の一人・于禁(うきん)とタッグを組んで、降伏させる事に成功。その後夏侯淵は曹操の領土内で反乱を起こした黄巾賊(こうきんぞく)討伐も難なくこなすのでした。
更に夏侯淵は揚州(ようしゅう)の盧江(ろこう)で反乱を起こした賊徒・雷緖(らいしょ)討伐を果たした後、北へ向かい太原(たいげん)郡で、反乱を起こした賊徒の討伐を行います。夏侯淵はこのように中国各地で反乱を起こした賊徒を討伐しているのです。
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他にも多くの賊徒を討伐!!
夏侯淵は上記で上げた賊徒達の他にも、馬超(ばちょう)・韓遂(かんすい)が結成した関中十部の残党討伐戦。涼州近辺を居住地にしていた異民族・氐族(ていぞく)や羌族(きょうぞく)討伐。更に涼州(りょうしゅう)が混乱している最中、王国を立ち上げて、国家を作り上げていた宗建(そうけん)の討伐も行っています。
夏侯淵はここで取り上げた反乱軍の他にも、曹操の領土内で反旗を翻した他の賊徒などを討伐したりしています。このように夏侯淵は曹操と一緒に戦った戦歴よりも、賊徒を多く討伐しているのでした。曹操と一緒に戦って功績をバシバシ挙げているイメージの強い、夏侯淵の衝撃の事実をお伝えしました。
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三国志ライター黒田レンの独り言
夏侯淵はなぜ曹操と一緒に戦った回数よりも賊徒討伐の方が多いのでしょう。レンの推測ですが、曹操は夏侯淵を自分で考えて戦を進める将軍として、成長させたかったのではないのでしょうか。曹操は袁紹を討伐したあと各地の群雄を倒して、天下統一を目指していました。
曹操は中国各地に散らばっている群雄と戦うためには、曹操一人では体がいくらあっても足りません。そこで曹操は自ら戦いに出て将軍へ指示を与えて戦わせるよりも、将軍自ら自分で考えて曹操の指示が無くても、戦いに勝利できる優秀な人材が必要になります。そのため曹操は自分で考えて戦いに勝利することのできる将軍として、曹操の挙兵した頃から仕えてきた夏侯淵を育成するため、賊徒討伐に夏侯淵を出陣させたのではないのでしょうか。
あくまでレンの憶測ですがこのように考えると曹操と一緒に戦わなかった理由として考える事が出来るのと思いますが、果たしてどうでしょうか。
参考 ちくま学芸文庫 正史三国志・魏書 井波律子・今鷹真訳など
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