劉備(りゅうび)などお茶の子さいさい、袁紹(えんしょう)も呂布(りょふ)も
知略で降した、あの曹操(そうそう)が、五回攻めても勝てなかった武将がいるのを
あなたは御存じですか?
その名は昌豨(しょうき)、呂布を筆頭とする泰山軍閥の一匹狼です。
今回のはじさんでは、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)にさえ
名を知られた戦の天才、黒狼、昌豨の生涯を解説します。
この記事の目次
諸葛亮孔明が褒めた昌豨
昌豨(?~206年)は徐州東海郡の人です。
別名として昌覇(しょうは)とも呼ばれますが、
ここではメジャーな昌豨として統一します。
さて、昌豨の名は彼の死後、20年以上して、意外な人物により語られます。
それが、北伐を間近に控えた諸葛亮孔明で、西暦226年上奏文でこう言っています。
「昌豨は曹操めが、五度も攻撃し倒す事が出来なかった男です」
あまり敵を褒めない孔明が、引き合いに出した昌豨とは、
一体どのような人物なのでしょうか?
呂布を筆頭とする、中華の火薬庫、泰山軍閥の一人だった昌豨
最初に登場する昌豨は、泰山に縄張りを持つ軍閥として登場します。
この泰山には、義理と人情の悪党、藏覇(ぞうは)、そして、藏覇の男気に忠誠を誓う、
孫観(そんかん)、呉敦(ごとん)、尹礼(いんれい)が棲みついていて、
さらには、徐州を抑えた鬼神呂布が狼連中を束ねていました。
この男達は、武勇に抜きんでていて、一筋縄ではいかず、
一度降伏しても状況が変わればすぐに裏切る実力至上主義の連中でした。
まさに泰山は一触即発、中華一ヤバい場所だったのです。
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西暦198年、呂布が曹操に倒されると昌豨も降伏
西暦198年12月、呂布は、ついに曹操に敗れて軍門に降ります。
呂布は処刑され、泰山軍閥は散りぢりに逃げ散りますが、
藏覇が男気から曹操に許されると、孫観、呉敦、尹礼は藏覇に説得され
投降、昌豨も降伏して、曹操に青州と徐州の黄巾賊討伐を命じられます。
ここで泰山軍閥は、恐るべき強さを発揮し両州の黄巾賊を平らげました。
曹操は大いに喜び臧覇を琅邪(ろうや)国相とし、尹礼を東莞(とうかん)太守、
呉敦を利城(りじょう)太守、孫康(そんこう:孫観の兄)を城陽(じょうよう)太守。
孫観を北海太守に任命、青・徐二州の統治を任せます。
昌豨は出てきていませんが、曹操は、事前に瑯邪郡、東海郡、北海郡から
城陽郡、利城郡、昌慮(しょうりょ)郡を分けたとされていますから、
昌豨は、昌慮郡の太守に任命されたのではないかと思います。
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昌豨、劉備に呼応して曹操に叛く
さしもの泰山軍閥も藏覇が曹操に心服して飼い犬になり牙を抜かれ、
配下の尹礼、孫観、孫康、呉敦も大人しく、それに従います。
しかし、黒狼、昌豨は、そのまま牙を抜かれる男ではありませんでした。
西暦200年、劉備は、
★董承(とうしょう)プレゼンツ、曹操絶対殺すマン会議
に積極的に参加していた事がバレ、やけっぱちで徐州で蜂起するも、
曹操に撃破され袁紹の下に逃げ込みます。
その後の劉備は曹操に絶対復讐するマンに変貌を遂げ、
豫州で反曹勢力を煽り東海でも昌豨を焚きつけていました。
昌豨「そうじゃあ、いつまでも曹操の尻を拝む程、わしゃ物分りは
よくねえんじゃあ!!!」
昌豨は劉備の扇動にのり、東海で蜂起しました。
劉備は本当に、こういう謀略だけは腹が立つ程上手です。
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張遼、夏侯淵の二人掛りで数カ月たっても乱を鎮圧できない
あわてた曹操は、張遼(ちょうりょう)と夏侯淵(かこうえん)を鎮圧に派遣します。
しかし、黒狼昌豨は、城を堅く守り、数か月経過しても落とす事が出来ません。
そこで、張遼は昌豨を根気強く説得、その結果、気が変わるのも早い昌豨は
あっさりと降伏しました。
張遼の説得がどういうものだったか分かりませんが、
反乱の罪を無かったものとする事だったのでしょう。
曹操は昌豨の才覚を惜しんで、そのまま東海郡に置き続けます。
西暦206年、昌豨は再び反乱を起こす
その後、しばらく大人しくしていた昌豨ですが、曹操が冀州を完全に
領有した西暦206年、再び反乱を起こしました。
曹操は、今度は藏覇と于禁(うきん)を派遣して討伐にあたります。
しかし、メジャー武将二人かかりでも、昌豨は容易には降伏しません。
この辺りに昌豨の戦の天才ぶりが見えます。
曹操は苦戦する藏覇と于禁に、さらに夏侯淵の援軍を派遣します。
これにより、力のバランスが大きく動き、とうとう于禁は
苦心の末に昌豨を捕えました。
于禁と昌豨は親友だったが、于禁は軍律を優先しこれを斬る
昌豨「ああー捕まってしもうたぁ・・」
実は、于禁と昌豨は親友同士だったようです。
度々、叛いても許される昌豨には不思議な愛嬌があったかも知れません。
ですが、于禁は親友である昌豨を突き離しました。
于禁「昌豨!軍律では包囲されて後に降伏したものは許されぬ」
昌豨「ほーか、、じゃあ、これまでか・・文則 達者での・・」
于禁は、昌豨を手にかけ、その首を曹操に送りました。
曹操は、軍律を重んじて、昌豨を斬った于禁を高く評価したそうです。
三国志ライターkawausoの独り言
ずっと読んでいただいた読者の皆さんは、あれ?と思ったでしょう。
「で、どこに曹操が絡んでんの?」そうなのです!
孔明が上奏文で曹操を五度退けたという昌豨の様子はどこにも見られないのです。
これは、史書にはないけど、曹操が何度か昌豨に敗れていて、
カッコ悪いと思ったから記録をスルーしてしまったか、、
曹操の手勢の攻撃を五回退けたというのを、孔明が誇張したか
誤認して、曹操の攻撃を五回退けたとしたのかでしょう。
本来、昌豨は藏覇の仲間として、青・徐州の黄巾討伐でも
活躍した筈ですが、どこの太守になったかの記述がないなど、
早い時期に曹操に背いて史書で割を食った節があります。
記録にないだけで、曹操に何度も煮え湯を飲ませた可能性はあるでしょう。
簡単に倒せない程の腕前なのですから・・
本日も三国志の話題をご馳走様です。
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