三国志といえば、漢王朝が衰えて滅んで魏、呉、蜀の三国に分れ、
のちに晋が三国を統一するまでの間をイメージします。
この三国のうち、漢王朝にかわる正統な後継王朝は魏です。
蜀と呉はそれぞれの親分が勝手に皇帝を名乗っただけです。
勝手に皇帝を名乗ると、普通は「僭称」と呼ばれてひどいバッシングを
悪く言われていません。なぜ僭称の罪を問われなかったのでしょうか。
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この記事の目次
漢から魏への王朝交替の手続き
中国の王朝は基本的には代々同じ一族の者に後を継がせながら続いていくもので、
他人が位につくと王朝交替となります(例外もありますが)。
こうした王朝交替を易姓革命と言い、
力づくで王朝を交替させた場合は放伐、
前王朝の帝王がみずから位を譲った場合は禅譲と呼びます。
魏の曹丕は禅譲の手順を踏んで皇帝となりました。
王朝交替に向けての下準備
曹丕が禅譲を受けて皇帝になるまでには、父親の曹操の代から
周到な準備がありました。
曹操は天下十三州のうち九州までを支配下におさめ、実権を失っていた漢の皇帝を
保護し、自分は漢の丞相(総理大臣のようなもの)として政治の実権を
握りながら、自分は周の文王になると言って(『魏氏春秋』)、
自ら帝位につこうとはしませんでした。
周の文王は、殷王朝の末期、天下の人望を集めながら自ら王位にはつかず
殷の臣として生涯を終えた人で、後に息子の武王が王朝交替をなしとげ
王になりました。
曹操が「周の文王になる」ということは、息子が王朝交替をしてくれればいいという意味です。
天下の実権を握り、息子を皇帝にしてやってくれよと周りの人たちに言っておいて、
嫌そうな顔をした人をいじめたりと(難色を示した荀彧は謎の急死をとげた)、
着々と息子を帝位につける下準備をしていたわけです。
こうして、曹操は皇帝ではなく魏王の位を得るところまで進み、九錫という
皇帝のシンボルアイテムを皇帝からプレゼントされるという、皇帝即位の一歩手前の
段階までいったところで、息子の曹丕に代替わりしました。
【北伐の真実に迫る】
文句のつけようのない手順を踏んで即位した曹丕
曹丕が皇帝になる前段階として、さまざまな瑞祥(めでたいしるし)の報告が
入ってきたり、大勢の臣下から皇帝になって下さいとお願いされたり、
漢の現職の皇帝からぜひ曹丕に皇帝になってほしいという申し入れを受けては
曹丕が辞退するという再三のやりとりがあったりしたうえで、
文句のつけようのない手順を踏んで、曹丕は禅譲を受けて皇帝に即位しました。
蜀びいきの陳寿の小細工
曹丕は完璧な手順を踏んで即位した正統な皇帝です。
一方、劉備と孫権は勝手に皇帝を名乗っただけです。
しかるに、劉備の皇帝即位の経緯を記す正史三国志の書き方はおかしいです。
まず言葉遣いからして小癪ですね。蜀志の先主伝に「二十五年魏文帝称尊号」とあります。
「建安二十五年、魏の文帝(曹丕のこと)が尊号を称した」という
意味ですが、「称」という言葉はおかしい!「称」は勝手に名乗るという意味です。
魏志の文帝紀では「阼(位にのぼるという意味)」という言葉を使っていたのに、
蜀志ではしれっと言葉遣いを変えているんですよ、
あたかも曹丕が正統な皇帝ではないかのように。
三国志の著者の陳寿は蜀の遺臣だから、蜀にひいきして
こんな小細工してるんじゃないでしょうかね。
劉備即位の時の不審な文章
蜀志に書かれている劉備即位の背景として、蜀には誤報が伝わったことが記されています。
実際には曹丕は漢の皇帝から禅譲を受けたのですが、蜀には漢の皇帝が殺されて
曹丕が即位したように伝える者があったと、蜀志にはあります。
その記述の後、にわかに蜀で瑞祥があって、劉備は臣下から請われて皇帝になった
のですが、その皇帝即位の時の劉備の文章がこれまたおかしいです。
「建安二十六年四月丙午」という日付から始まるのですが、建安二十六年なんてありません。
建安二十五年、まだ漢から魏への王朝交替が行われていなかった時に、
元号は延康と改元されています。
漢の皇帝が禅譲を行ったのはそれから半年以上も経ってからです。
曹丕が皇帝になったことは伝わっても、それより半年以上も前の改元の情報が
蜀に伝わっていなかったとは、情報に疎すぎますね。
当時の名士同士の文通の様子や情報通ぶりからして、改元を知らなかったなんておかしいです。
ほんとは漢の皇帝が殺されたわけじゃないことも改元したこともなにもかも知っていたくせに、
わざとすっとぼけて「建安二十六年」なんて言っていたんじゃないでしょうか。
ボクはなんにも知らないよー、てっきり漢の皇帝が殺されたと思ったから即位したんだよー、って。
殺されたことにしておかないと、劉備が即位する大義が失われますからね。
なりゆきで皇帝になった孫権
呉志の記述は冷静です。呉志でも曹丕の即位のことを「称」という言葉で表現していますが、
蜀志に準じてそう書いただけでしょう。
劉備の即位のことも同じく「称」という言葉で表現しています。
呉志には建安二十五年に改元があったことも淡々と書かれています。
孫権が即位した経緯としては、曹丕も劉備も皇帝になったので我が君もそろそろ、
という話が臣下から出て、ほな、という感じで皇帝になったようです。
蜀を実効支配している劉備がニセ皇帝になったんだから、
呉を実効支配している自分だってニセ皇帝になったっていいだろうという、
ごく自然な流れです。
孫権が皇帝を自称してもバッシングされなかったのは、
劉備の先例があったおかげですね。
三国志ライター よかミカンの独り言
いかに土地を実効支配していても、勝手に皇帝を名乗った場合には袁術のように
バッシングをうけるのが本来のあり方です。
しかし、正史の三国志の著者が蜀の遺臣であったため、劉備をさりげなーくかばう
ような書き方がされ、劉備のニセ皇帝ぶりをきわだたせないためには孫権のことも
バッシングするわけにはいかず、結局劉備も孫権も悪くは書かれないという結果に
なりました。
これは三国志が編纂された頃の統一王朝である晋にとって何ら困ることでは
なく、どちらかといえば好都合だったので、誰も目くじらたてなかったんですね。
スーパーヒーローズの曹氏一族が天下のほとんどを平定して、地方にちょっとだけ
群雄がいた、っていう構図よりも、天下が三つに分れているところをスーパーヒーローズの
司馬氏一族が統一したよ、っていうストーリーのほうが、晋にとって好都合です。
劉備や孫権が僭称の罪を問われなかったのは、
正史三国志の著者の陳寿や晋の司馬氏の都合によるものです。
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