残虐といえば三国志で真っ先に名前があがるのは董卓でしょう。それに相反するのが義に生きる劉備です。
暴君の董卓、仁君の劉備といった構図ですね。そんな劉備ですが、実は人肉を食べていたという噂があります。そんな残酷なことをあの劉備が本当にしていたのでしょうか?その真相を追ってみます。
三国志に記された董卓の残虐ぶり
少帝を廃し、献帝を擁立し、洛陽の都を焼き払って長安へ強行遷都した董卓。酒宴の席では、董卓に逆らう者の手足を切り、眼玉をくり抜き、舌を引っこ抜いてから大釜で煮たと記されています。そんな光景を見せられ、多くの官吏が、食事が喉を通らない中で董卓は平然と食事をしていたそうです。
「三国志正史」にも「三国志演義」にも同じような描写があることから、董卓の残虐ぶりは間違いない話です。これで充分ホラー映画を一本作成できる内容です。
劉備が人肉を食べたのは噂なのか
劉備が人肉を食べたという話は三国志ファンには有名です。ただし、こちらは三国志演義に記されているのであって、三国志正史には記されていません。つまり脚色の可能性が大だということになります。
しかし三国志演義は劉備を主役にした話で、劉備や諸葛孔明の義を際立たせる設定になっているはずです。それなのになぜ三国志演義ではこのようなエピソードが記載されているのでしょうか?
吉川英治先生の小説「三国志」でも作者のコメントとして不快感を表しているほどです。到底受け入れられるはずのない出来事なのです。これこそが本当の劉備の暗黒面なのでしょうか?
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波動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志』
妻の肉を狼の肉として提供した劉安
この話は、徐州にいた劉備が呂布に追い立てられ、曹操のもとに落ち延びていく最中の出来事です。劉備は劉安という猟師の家に泊まらせてもらうことになりました。しかし劉備に食べさせる獲物を捕らえることができなかった劉安は、妻を殺してその肉を狼の肉だと偽って劉備に食べさせます。劉備は翌日になってその事実に気づき、涙を流して感動するのです。
ここでのポイントは2つあります。ひとつは、「劉備が自ら食べようとして人肉を食べたわけではない」ということ。もうひとつは「その事実を知って感動し、家臣に加えようとした」ということです。人肉を食べさせられて感動するとはいったいどういうことなのでしょうか?
割股という最高の孝行
実は三国志演義が書かれた頃の明の時代には、「割股」という文化がありました。病気の親に自分の肉を削いで食べさせるというもので、最高の孝行とされていたのです。この場合、劉安は自分の肉ではなく、妻の肉を提供していますが、心の痛みは自分の肉を削ぐ以上のことだったことでしょう。その苦痛を乗り越え、劉安は劉備に誠意を示しました。
この行為に対し涙を流して感動し、評価できる劉備こそやはり「義の象徴」なわけです。劉安は高齢の母の介護があるからと劉備への仕官を断りました。価値観とすれば、「妻への愛情 < 仁君への忠義 < 親への孝行」という不等式が成り立ちます。明や清の時代にあって、三国志演義は模範とすべき理想の「孝行」や、「忠義」を民衆に伝える教科書的な役割も果たしていたといえます。
三国志ライターろひもとの独り言
つまり劉安のエピソードは、「劉備が残酷な人物である」ということを伝えたかったわけではなく、逆に「劉備は義を尊ぶ人物である」ということをアピールするねらいがあったことになります。三国志演義ならではのフィクションです。
ちなみにこの風習は日本には定着することはありませんでした。ですから日本人には理解できない話なのです。それはそれでちょっとホッとしますね。余談ですが、劉安のもとには後日、金100両が届けられています。
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