「補給は重要」そのように兵法では習いつつも特権化した士大夫階級はそれを字面でしか理解せず本当の意味で補給の重要性を知る人が少ないのが実際でした。劉備の死後、諸葛丞相の下で成長した蜀の次世代武将の中にも、実感として戦乱の時代を知る人は少なくなっていった事でしょう。その事に危惧を覚えた孔明が、実戦間近な次世代武将に与えた任務が、なかなか深いので紹介しましょう。
養子の諸葛喬を補給の仕事に従事させた孔明
蜀においては、食糧の補給を次世代に当たる諸将の子弟達に任せていました。その様子は、蜀書、諸葛亮伝に収められた諸葛亮集にある兄諸葛瑾への手紙にあります。
諸葛喬は本来は成都に戻すべきですが、今、諸将の子弟は皆、運輸に従事しており
栄辱を共にするのが宜しいかと思います。
今、喬に五六百の兵を監督させ諸将の子弟と谷中で運輸させています。
手紙の通りだとすると、孔明は養子とはいえ実子として家督を継がせるつもりの諸葛喬を特別扱いせずに、他の諸将の子弟と共に大変な食糧輸送の任に充てているその事実が分かってきます。
諸葛喬は才能では、兄の諸葛恪に及ばないながら性格の真っすぐな青年であり性格では勝るとして、呉では兄弟共に音に聞こえた人でした。まさにそれを知るからこそ、孔明はあえて困難な補給事業に従事させ、いかに補給が重要であり、大変な作業であるかを体験として理解させたかったそういう事ではないでしょうか?
少年期に流浪の困難を体験した諸葛亮
孔明の戦略は、神経質な程に補給の重要性にこだわるものでした。決して無理をせず、補給が続かないと思えば退却を決意します。それは、彼の性格に由来するものでしょうが、やはり少年期に徐州の動乱に遭遇し荊州の隆中に落ち着くまで、艱難辛苦をなめた事が影響しているのでしょう。
曹叡が孔明をdisった詔にも、以下のような内容があります。
「孔明は、ドけちである!昔、薪を背負っている時に摩擦で毛皮のジャケットがすり切れるのを惜しみ、それを裏返して着ていたし、それも裏地がすり減り、表の毛が全て抜けおちるまで捨てようとはしなかった。靴のサイズが合わないと見るや、自分の足を刀で削って無理やり履こうとし肌を切り刻み、骨に傷をつけながら、逆に自分を逆境に負けない人間だと称揚し大変に有能であると思いこんでいるのだ」
このように、異常にモノを大事にする性質は、とても士大夫階級に生まれた孔明が自然に持っていた性格だとは思えません。人生の一時期に、食うや食わずの生活をし、衣食住全てに不自由したその経験から来た強迫観念込みの貧乏性のように思えます。その経験が孔明をストイックにさせ、やはり人間経験が第一であると考えさせたとすれば、高級官僚の子弟に困難な食糧輸送をあえて担当させたこの行動の意図が透けて見えてきます。
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【北伐の真実に迫る】
困難を体験する事で初めて下積みの人々の気持ちが分かる
黄巾の乱の時代に生まれ、群雄割拠の動乱を経験してきた孔明には、その後に生まれてきた世代は、食べ物の有難みを実感としては知らない。補給の大変さを頭でしか理解していないという危惧があったのではないか?kawausoには、そのように思えるのです。
「人生とは、困難との戦いの連続である。」
諸葛亮は、丞相としてそのように考えて、困難な補給業務を、次世代の人材達に体験させていたのです。
三国志ライターkawausoの独り言
戦争を経験した80歳以上の方々は、物を粗末にできないという観念が非常に激しいという共通した特徴があります。一度、困窮を経験すると「欠乏」が当たり前で「物が溢れるのは異常」という感覚が沁みついてしまい、時々、具なしのすいとんを食べたりなどして、ストイックさを思い出して安心したりします。
諸葛孔明の場合にも、少年期の流浪が強烈なインパクトとして心に刻まれ、補給への神経質な程のこだわりや、過剰に清貧な生活スタイルとして現れたのではないでしょうか?
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