呂布の武力100以上あっても天下は取れなかった理由

2018年5月13日


 

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呂布

 

三国志最強の武将呂布(りょふ)、何度も裏切りを繰り返し欲望のままに生きた呂布ですが、

もしも彼の武力が100以上あれば、曹操(そうそう)()し潰して天下を取れたのでしょうか?

残念ながら答えはNoです。

どうしてそうなるのか、それは天下を治める絶対条件の正統性を一度も、

意識した事がない為なのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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天下を取るとは対抗勢力を全て叩き潰す事ではない?

袁術

 

三国志の世界は後漢王朝の力が衰え秩序が崩壊した時代です。

ならば、今の10倍にパワーアップした呂布なら難なく天下が取れる

一見、そう思うかも知れませんが実は違うのです。

 

天下を取るという事に何よりも必要なのは天下を治める正統性を得る事

自分に歯向かってくる相手をひたすら叩き潰す事ではないのです。

 



ライバルが抵抗しても仕方ないと思う大義名分を立てる

光武帝

 

例えば、後漢王朝は漢王室の流れを汲んでいる光武帝劉秀(こうぶていりゅうしゅう)が前漢を簒奪(さんだつ)した

王莽(おうもう)を撃破し、その後、雨後の(たけのこ)の如く出現したライバルを打ち倒して

建国したという正統性を持っていました。

 

また、前漢は建国者劉邦(りゅうほう)が人民を(しいた)げた秦帝国を倒す事に功績があり、

その後、悪逆無道な覇項羽(こうう)を撃破する事で樹立した正統性があります。

劉邦

 

つまり正統性とは人民を虐げ苦しめている暴君を倒して善政を敷き、

圧倒的に人民に支持されているという既成事実の事でした。

いくら武力が強くても、広範囲に支持されている相手を敵にすると

自分が悪者になってしまうリスクを背負う事になります。

 

それでは、周辺の勢力が協力してくれず、

下手をすれば相手に味方してこちらを攻めるかも知れません。

だから迂闊(うかつ)に逆らえないのです、

これが正統性から発生する大義名分です。

 

曹操孟徳

 

呂布は大義名分など考えた事も無かった

呂布

 

呂布は確かに強いですが、彼は大義名分に関心がありませんでした。

頼みにしているのは、自分の武力だけであり、後は目先の変化で

少しでも有利な方につくというだけでした。

 

もっとも呂布にも天下に近かった時期があります。

西暦192年、王允(おういん)(そそのか)されて董卓(とうたく)を殺害し奮武(ふんぶ)将軍に任じられた頃です。

 

この状態を維持し、王允と折り合いをつけるなり排除するなりして

直接に献帝(けんてい)をコントロールできるようにし、周辺に号令をかける事が出来れば

ほぼ無敵の強さがあるのですから、献帝を保護した曹操(そうそう)のように

自分が起こす戦いを義戦として、自分に歯向かう相手を賊にする

アドバンテージを保有できたかも知れません。

 

しかし、王允と呂布の蜜月は短期間で終り、おまけに董卓の弔い合戦で

長安に攻め上ってきた李傕(りかく)郭汜(かくし)の連合軍に敗れてしまい、

呂布は簡単に献帝を手放してしまうのです。

李傕と郭汜

 

また、その事について呂布は何の痛恨も感じている様子もないので

最初から天下を取るという認識など無かったのでしょう。

 

最後まで献帝を握り続けた曹操

献帝

 

呂布と対照的なのは、やはり曹操です。

許に献帝を迎えてからは終始一貫して手放す事なく守り続けました。

元々自分とは、かなり実力差があった北方の雄、袁紹(えんしょう)

「ミカドをもう少し、俺の領地の近くに移せやゴルァ」と凄んでも

関係が悪くなる事を承知で拒否しています。

曹操と袁紹

 

献帝は全く非力でしたが、その400年の権威は曹操の力の源泉でした。

魏には雲霞の如く人材が集まってきましたが、

もし、曹操が献帝を握っていなければ、その人材の流れは、

はるかにゆっくりしたものに終始したでしょう。

 

当時、士大夫が仕える相手は漢王室以外にはありませんから、

例え傀儡皇帝(かいらいこうてい)に過ぎずとも、めぼしい人材は魏を目指す事になったのです。

   

正当性を中途半端にしか持ちえず苦労した蜀や呉

諸葛亮孔明

 

呂布などよりは、ずーっと正当性の必要を痛感していた(しょく)()ですが、

やはり、献帝を曹操に抑えられ曹丕(そうひ)が禅譲により魏王朝を建国すると

自国の正統性の弱さに苦しめられる事になっています。

 

呉は元より、建国の正統性の担保がないので龍が出たとか

鳳凰(ほうおう)が飛んだ等の怪しい瑞兆(ずいちょう)などを演出するしかなく

孫権が本気で天下統一を狙っていたかは疑問です。

孫権

 

あわよくばの気持ちはあったでしょうが、自分の正統性の無さが、

天下の争奪に極めて不利である事は承知していたでしょう。

 

孫権は春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)孫武(そんぶ)の子孫を名乗っていたようですが、

王侯でもない将軍孫武の威光に(すが)る時点で正統性の弱さを

白状(はくじょう)しているも同じだと言えます。

孔明

 

蜀は一見すると、漢室の末裔を称する劉備(りゅうび)のお陰で呉よりは、

幾分かはマシに見えますが、それでも蜀の正統性を維持する為に、

曹魏を不倶戴天(ふぐたいてん)の敵と憎み、絶えず攻撃を仕掛け挙国一致(きょこくいっち)を貫かないと

国内が弛緩(しかん)して、ただの地方政権に成り下がるというジレンマを

滅亡まで抱え続けないといけませんでした。

 

北伐で諸葛亮が絶えず長安陥落を企むのも、前漢の帝都を抑えて

ここに劉禅(りゅうぜん)を迎え、とぼしい正統性をいくばくか補強するという

思惑があったに違いありません。

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawauso

 

こうして見ると、ただ強いだけでは天下を取る事は出来ない事がわかります。

曹操は戦いに果てがない事をよく知っていて、いかに権威を握って

戦わずに敵を屈するかに注意深く配慮しました。

 

いかに敵が強くても、相手が逆らいようがない正統性を保持していれば

ひとりでに敵は倒れていくという事を曹操は理解していたと言えるでしょう。

それは、魯粛(ろしゅく)周瑜(しゅうゆ)が呉の衆論を(くつがえ)すまで、呉では降伏論が優勢だった点からも

窺えるのではないでしょうか?

 

三国志には多くの英傑が出ましたが、大義名分を得て、

天下を再統一出来る程のプランがあったのは曹操や諸葛亮などの

数える程の人々しかいなかったと言えますね。

 

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袁術祭り

 
 

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