三国志最強の武将呂布、何度も裏切りを繰り返し欲望のままに生きた呂布ですが、
もしも彼の武力が100以上あれば、曹操を圧し潰して天下を取れたのでしょうか?
残念ながら答えはNoです。
どうしてそうなるのか、それは天下を治める絶対条件の正統性を一度も、
意識した事がない為なのです。
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この記事の目次
天下を取るとは対抗勢力を全て叩き潰す事ではない?
三国志の世界は後漢王朝の力が衰え秩序が崩壊した時代です。
ならば、今の10倍にパワーアップした呂布なら難なく天下が取れる
一見、そう思うかも知れませんが実は違うのです。
天下を取るという事に何よりも必要なのは天下を治める正統性を得る事
自分に歯向かってくる相手をひたすら叩き潰す事ではないのです。
ライバルが抵抗しても仕方ないと思う大義名分を立てる
例えば、後漢王朝は漢王室の流れを汲んでいる光武帝劉秀が前漢を簒奪した
王莽を撃破し、その後、雨後の筍の如く出現したライバルを打ち倒して
建国したという正統性を持っていました。
また、前漢は建国者劉邦が人民を虐げた秦帝国を倒す事に功績があり、
その後、悪逆無道な覇王項羽を撃破する事で樹立した正統性があります。
つまり正統性とは人民を虐げ苦しめている暴君を倒して善政を敷き、
圧倒的に人民に支持されているという既成事実の事でした。
いくら武力が強くても、広範囲に支持されている相手を敵にすると
自分が悪者になってしまうリスクを背負う事になります。
それでは、周辺の勢力が協力してくれず、
下手をすれば相手に味方してこちらを攻めるかも知れません。
だから迂闊に逆らえないのです、
これが正統性から発生する大義名分です。
呂布は大義名分など考えた事も無かった
呂布は確かに強いですが、彼は大義名分に関心がありませんでした。
頼みにしているのは、自分の武力だけであり、後は目先の変化で
少しでも有利な方につくというだけでした。
もっとも呂布にも天下に近かった時期があります。
西暦192年、王允に唆されて董卓を殺害し奮武将軍に任じられた頃です。
この状態を維持し、王允と折り合いをつけるなり排除するなりして
直接に献帝をコントロールできるようにし、周辺に号令をかける事が出来れば
ほぼ無敵の強さがあるのですから、献帝を保護した曹操のように
自分が起こす戦いを義戦として、自分に歯向かう相手を賊にする
アドバンテージを保有できたかも知れません。
しかし、王允と呂布の蜜月は短期間で終り、おまけに董卓の弔い合戦で
呂布は簡単に献帝を手放してしまうのです。
また、その事について呂布は何の痛恨も感じている様子もないので
最初から天下を取るという認識など無かったのでしょう。
最後まで献帝を握り続けた曹操
呂布と対照的なのは、やはり曹操です。
許に献帝を迎えてからは終始一貫して手放す事なく守り続けました。
元々自分とは、かなり実力差があった北方の雄、袁紹が
「ミカドをもう少し、俺の領地の近くに移せやゴルァ」と凄んでも
関係が悪くなる事を承知で拒否しています。
献帝は全く非力でしたが、その400年の権威は曹操の力の源泉でした。
魏には雲霞の如く人材が集まってきましたが、
もし、曹操が献帝を握っていなければ、その人材の流れは、
はるかにゆっくりしたものに終始したでしょう。
当時、士大夫が仕える相手は漢王室以外にはありませんから、
例え傀儡皇帝に過ぎずとも、めぼしい人材は魏を目指す事になったのです。
正当性を中途半端にしか持ちえず苦労した蜀や呉
呂布などよりは、ずーっと正当性の必要を痛感していた蜀や呉ですが、
やはり、献帝を曹操に抑えられ曹丕が禅譲により魏王朝を建国すると
自国の正統性の弱さに苦しめられる事になっています。
呉は元より、建国の正統性の担保がないので龍が出たとか
鳳凰が飛んだ等の怪しい瑞兆などを演出するしかなく
孫権が本気で天下統一を狙っていたかは疑問です。
あわよくばの気持ちはあったでしょうが、自分の正統性の無さが、
天下の争奪に極めて不利である事は承知していたでしょう。
孫権は春秋戦国時代の孫武の子孫を名乗っていたようですが、
王侯でもない将軍孫武の威光に縋る時点で正統性の弱さを
白状しているも同じだと言えます。
蜀は一見すると、漢室の末裔を称する劉備のお陰で呉よりは、
幾分かはマシに見えますが、それでも蜀の正統性を維持する為に、
曹魏を不倶戴天の敵と憎み、絶えず攻撃を仕掛け挙国一致を貫かないと
国内が弛緩して、ただの地方政権に成り下がるというジレンマを
滅亡まで抱え続けないといけませんでした。
北伐で諸葛亮が絶えず長安陥落を企むのも、前漢の帝都を抑えて
ここに劉禅を迎え、とぼしい正統性をいくばくか補強するという
思惑があったに違いありません。
三国志ライターkawausoの独り言
こうして見ると、ただ強いだけでは天下を取る事は出来ない事がわかります。
曹操は戦いに果てがない事をよく知っていて、いかに権威を握って
戦わずに敵を屈するかに注意深く配慮しました。
いかに敵が強くても、相手が逆らいようがない正統性を保持していれば
ひとりでに敵は倒れていくという事を曹操は理解していたと言えるでしょう。
それは、魯粛と周瑜が呉の衆論を覆すまで、呉では降伏論が優勢だった点からも
窺えるのではないでしょうか?
三国志には多くの英傑が出ましたが、大義名分を得て、
天下を再統一出来る程のプランがあったのは曹操や諸葛亮などの
数える程の人々しかいなかったと言えますね。
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