こんにちは。
日本古代史ライターのコーノヒロです。
前回は、邪馬台国のラストエンペラーのニギハヤヒノミコトが、
邪馬台国以前の古代日本において、最も繁栄していたと言われる
「出雲王国」の王族の直系の子孫かもしれないことが分かったお話でした。
今回はその観点で、ニギハヤヒの野望を再考し、さらに出雲王国の生き残りが、
邪馬台国だけでなく大和朝廷にもいかに影響を与えたかについて、
もう少し深く探っていきたいと思います。
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この記事の目次
「出雲王国 再び大和へ降臨?」
まず、ニギハヤヒの野望について再考していきます。
ただ、その前に、前回までで話せなかった、ニギハヤヒが、
邪馬台国の王として君臨した頃の話を想像しながら物語っていきます。
大陸では、「魏」が滅亡し、司馬炎が打ち立てた「晋」(西晋)が、
中国大陸を統一したばかりの頃でした。
倭国と呼ばれた日本列島内では、邪馬台国の女王・台与が死去し、
王国の求心力が低下し、分離独立の動きが出てきました。
王位継承を巡る争いも起きたのです。
このとき、出雲に居座っていただろう、ニギハヤヒが動き出します。
ニギハヤヒとナガスネヒコの出会い
また、王位継承権巡る争いで混乱し始めた邪馬台国の宮中では、
ある一人の豪族が登場します。
ナガスネヒコです。
このナガスネヒコは、生駒地域の首長のような存在だったようです。
この人物に、ニギハヤヒが目をつけたのです。
その理由は、おそらくは、軍事統率力、武人としての力量が抜きん出ていたからでしょう。
それだけ、ナガスネヒコの武人としての名声が広く知られていたということでしょうか。
ニギハヤヒは、ナガスネヒコの娘婿になることを持ちかけます。
自分は出雲王国の王・オオクニヌシの子孫であり、
邪馬台国の王位継承権にふさわしい人物であるから、
王位継承したあかつきには、外戚として、大将軍の権限を与えると、
約束したのかもしれません。
ただ、ナガスネヒコも一筋縄ではいかない食えない人物だったのではないでしょうか。
つまり、過去に大和を治めていた王族の子孫を王座に据えて、
ナガスネヒコ自身は、邪馬台国の実権を握ることを画策したかもしれません。
結果的には、お互いの利害が一致したようで、ニギハヤヒとナガスネヒコは、
政略結婚の形で、親族関係という同盟関係を結びます。
これが事実だったなら、日本でも、
この古代から婚姻が政治の道具にされていたということですね。
しかし、よく考えれば、中国大陸では、そのときは、戦乱の三国志の時代ですし、
そのよう権謀術数は当たり前のような状況でしたでしょうか。
また、前の漢代や、その前の春秋戦国時代でも、つまりは、邪馬台国の時代より、
数百年~千年前くらいから、それは当然の状況で人間関係は、
政治や戦争の道具に利用されていたということでしょう。
思うに、人間の歴史において、真実の信頼関係、愛情関係というものは、
文明の発展とともに、戦争が行われ、破壊され続けてきたのでしょう。
それは、現代においても至るところに残っているように見受けられます。
実際の戦争でなくても、代理戦争としてのビジネスにおいても、
そういった破壊が公然と行われているのです。
話がそれてきたので戻しますと、政略結婚によって、
ニギハヤヒは邪馬台国の王位を継承し、ナガスネヒコは大将軍の地位を手に入れ、
ニギハヤヒにとっても、ナガスネヒコにとっても、
とりあえずは思惑通りになったということでしょう。
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
ニギハヤヒ邪馬台国を見放し、大和朝廷に乗り換える!
しかし、この政略結婚による同盟関係は早くも崩れ去ったのです。
その後の話は、前回の「ニギハヤヒの野望」の記事でもお話した結果につながるのです。
邪馬台国の王になったニギハヤヒは、今度は九州から東征を目論んでいた、
カムヤマトとイツセの兄弟の情報を手に入れるや否や、その兄弟に目を向けたのです。
それは、ナガスネヒコを疎ましく思ったのか?
それとも、カムヤマトとイツセの方が上手く利用できると思ったからなのかもしれません。
ニギハヤヒは、カムヤマト(神武)と裏でつるんで、
邪馬台国軍ナガスネヒコ大将軍を抹殺し大和の支配権はカムヤマト(神武)に禅譲します。
そして、ニギハヤヒは大和を離れたのです。
その意図は前回お話したように、日本列島の海の拠点を抑え制海権を得ることだったでしょう。
さらには、邪馬台国の復活を画策していたのではないかというのが、前回の推察でした。
しかし、今回、出雲王国とニギハヤヒのつながりが見えてきたことで、また違った推察ができるのです。
それは、出雲王国の復活を望んでいたということです。
オオクニヌシの復讐と思惑? 時を超えて成るか!
ニギハヤヒは、祖先のオオクニヌシの意志として、
再び、出雲を中心とした出雲王国を、旧邪馬台国勢力も味方に引き込み、
復活させることを目論んでいたと考えていたのではと思えてくるのです。
さらに言えば、オオクニヌシは卑弥呼の邪馬台国に大和の支配権を奪われ、
失脚させられた訳でしたから、その屈辱を時を超え子孫のニギハヤヒの代で、
神武天皇と協力し邪馬台国を滅亡に追いやるということに
成功したという見方もできますね。
そして、ニギハヤヒの、あるいはオオクニヌシの子孫は物部氏として、
日本列島の周囲の制海権を得ることに成功するのです。
「出雲海洋王国」と言えるでしょうか?
しかし、一族とは大きくなれば綻びが出てくるものなのでしょうか。
一枚岩のように見えていた物部氏に亀裂が見えてくるのです。
出雲没落の道?
出雲を中心に繁栄するかと思えた物部氏ですが、
大和朝廷成立後、急速に出雲は衰退するという事実が分かってきました。
そこに代わって、繁栄したのが、瀬戸内海地域でした。
中でも、吉備(岡山)は、ニギハヤヒの子孫の物部氏の縁の神社があり、
大きな古墳が発見されていることもあり、物部氏の一大拠点になったと言われています。
しかも、かなり繁栄したというのです。
そして、吉備は大和朝廷の命で出雲に軍勢をさし向け、討伐しているのです。
そうすると、妙だと感じないでしょうか?
出雲も吉備も、同じく物部系の一族の拠点であったはずです。
しかも、出雲は、邪馬台国のラストエンペラーのニギハヤヒの子、
ウマシマチノミコトが最後に落ち着いたところです。
つまり、出雲王国と邪馬台国の王族の直系の子孫の拠点だったところです。
これは、同族同士の争いの可能性があったと見て良さそうなのではないでしょうか?
出雲を拠点に出雲王国の復活を目指した、ニギハヤヒ系の物部氏と、
大和朝廷と結びついた、吉備系の物部氏との間の
争いが勃発したという構図ではないでしょうか?
「出雲系物部氏」と「吉備系物部氏」の争いだったということなのです。
吉備は、大和朝廷に取り入り、出雲を抹殺しようと狙ったといえるのではないでしょうか?
古今東西、組織は大きければ、大きいほど、相争い、分裂してしまいがちな印象です。
出雲王国と邪馬台国の王族の直系である物部氏の、
大和朝廷時代の栄枯盛衰については、またの機会に物語っていきたいと思います。
日本古代史ライターコーノ・ヒロの独り言
次回は、また歴史を遡ります。
なぜ古代日本において、邪馬台国よりも前に出雲王国が大きく繁栄できたのでしょうか?
出雲王国と朝鮮半島とのつながりの深さについてなどを探っていきます。お楽しみに。
(了)
【参考文献】
◆『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて ―』村井康彦著(岩波新書)
◆ 『伊勢と出雲 韓神と鉄 』岡谷公二 著 (平凡社)
◆『消えた海洋王国 吉備物部一族の正体 古代史謎解き紀行』関裕二 著(新潮文庫)
◆『新訂 古事記』
武田祐吉 訳注(角川ソフィア文庫)
◆『卑弥呼は狗邪国から来た』
保坂俊三 著(新人物往来社)
◆『日本書紀 上(全現代語訳)』
宇治谷孟 著(講談社学術文庫)
◆古代出雲ゼミナールⅢ〔古代文化連続講座記録集〕
山陰文化ライブラリー9 (島根県古代文化センター編 ハーベスト出版)
◆別冊宝島 CGでよみがえる古代出雲王国
「邪馬台国以前に存在した一大海洋国家の真実」(宝島社)
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