【素朴な疑問】三顧の礼はどうして凄いのか?

2018年10月3日


 

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三顧の礼

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)の名場面である三顧(さんこ)の礼、正史にも出師(すいし)の表に劉備(りゅうび)諸葛亮(しょかつりょう)の庵を訪れたという記述が出てくるので、あるいは本当にあったのかも知れませんが、現在知られている三顧の礼の具体的なエピソードは三国志演義の脚色です。

 

新解釈・三國志 三顧の礼に秒で答える孔明 孔明、劉備

 

しかし、三国志初心者の方は、劉備が孔明を三度訪れた事のどこが凄いの?こんな風に思っているのかも知れません。「劉備が孔明の命を救ったとかなら分かるけど、ただ留守がちの孔明の下に劉備が三回尋ねたのがどうして美談になるの?」なるほど、それでは三顧の礼がいかに凄いのかを解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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儒教の価値観では年長者が年少者を尋ねるのは破格の対応

儒教の価値観と孔子

 

まず、第一に当時の中国の価値観である儒教(じゅきょう)の影響を考えないといけません。ザックリと儒教の価値観を説明すると、自分より先に生まれた人を(うやま)えです。具体的には、先祖を敬い、両親を敬い、年長者を敬うという事になります。あなたがこの世に存在するのは、第一には両親のお陰、そして両親が存在するのは、それぞれ両親の先祖のお陰だからという理屈ですね。こうして考えると、自分より1歳でも年上は先生(先に生まれた)として敬わないといけない事になるのです。

 

劉備は西暦161年の生まれで孔明は181年の生まれ、年齢差は20歳もあり親子ほどの開きが存在します。この時点で、劉備は用があるなら孔明を呼びつけてもいいわけです。逆に孔明が劉備を呼びつけるのは、当時の価値観では不遜(ふそん)な振る舞いであり教育がなっとらんという事なのです。このような習慣に構わず、劉備は自ら孔明を三度尋ねたわけで破格の対応でした。

 

 

劉備は左将軍、孔明は無位無官

劉備は左将軍、孔明は無位無官

 

また、劉備は孔明の庵を尋ねた頃には、劉表の客分の傭兵隊長でしたが、曹操(そうそう)の下にいた頃に左将軍(さしょうぐん)という官位を授かっていました。これは上から四番目の地位でなかなか高いです。三国志演義でも劉備は誇らしげに、左将軍の肩書を名乗っていますから、かなり押しが利く肩書である事が分かります。

 

一方の孔明は身分こそ士大夫(しだいふ)階級ですが、どこにも仕えていないので官位を持っていません平民と同じです。そんな、孔明から見れば殿上人(でんじょうびと)の劉備がわざわざ平民同然の孔明に会いに来るのです。例えるなら、水戸黄門(みとこうもん)が越後のちりめん問屋の隠居ではなく、水戸藩主の身分で、百姓の若者を尋ねてスカウトするようなもので、これも破格でしょう。

 

 

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新野城から隆中は一日がかりだった

新野城から隆中は一日がかりだった

 

3つ目の理由は、物理的な問題です。三顧の礼の当時、劉備は劉表から新野城を任され曹操に備えていました。この新野城から孔明の庵がある隆中は、直線距離でおよそ80キロあるのです。自動車や電車があるならいざ知らず、徒歩以外の移動手段は馬しかない昔これだけの距離を移動するのは一日がかりだったでしょう。

 

しかも、新野城を任されている手前、劉備一行には、孔明が来るまでは襄陽(じょうよう)で長逗留(とうりゅう)してのんびり待つという選択肢もないのです。空振りしたら、むなしく80キロの距離を帰るだけは相当キツイですよ。あの辛抱強い関羽でさえ、三度目の訪問では出発前に

 

「二度も出向いて会えないだけでも度が過ぎています

孔明は虚名だけで実力がないので逃げ回っているのでしょう

これ以上、付き合わされるのはもう沢山だ」と音を上げています。

 

関羽

 

おそらく二度目の雪中行軍でそうとう嫌気がさしたのでしょう。帰りも3人旅ですから、帰る道すがら劉備は2人から散々に孔明の愚痴(ぐち)を聞かされたに違いありません。劉備だって内心は「俺何やってんだろ」感を必死に打ち消しながら遭難(そうなん)しそうな大雪の中を新野に帰ったに違いないのです。40過ぎたいいオッサン3人が三度にわたり、往復160キロの道のりを愚痴を吐きながら息子のような若造、孔明に会う為に通い続けた。その悲哀に満ちた構図は文句なく(すご)いと言わねばなりません。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

いかがでしょうか?三顧の礼を決行した劉備一行がいかに凄いかお分かり頂けたでしょうか?こうまで苦労して会えた孔明が、庵から降りてきたと思えば、毎日、毎日、劉備といちゃいちゃを開始します。

 

「散々アポに苦労させられたうえに、今度は兄者を孔明に取られたもう悔しいったらないわ、キーーーーーーーーーッ!!」と張飛と関羽が嫉妬するのも、無理からぬ事でしょうね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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