明智光秀の生い立ちを辿ってみよう

2018年11月4日


 

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明智光秀

 

明智光秀(あけちみつひで)といえば、15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)の家臣で織田信長に出会ってから信長の家臣となり、本能寺の変で信長を裏切った人物という特徴が

挙げられます。

この記事の読者の中には明智光秀のことを悪人としての印象を受けている人がいると思います。

しかし、明智光秀が生まれてから足利義昭の家臣になるまでの過程についてはほとんど知られていません。

今回は、明智光秀について生い立ちと15代将軍足利義昭の家臣になるまでの過程を取り上げます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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明智光秀の生い立ち

斎藤道三

斎藤道三

 

明智光秀は1528年に美濃国の身分の低い牢人(ろうにん)として生まれました。

史料によっては1526年に生まれたという説や1540年に生まれたという説もあり、確定していません。

光秀が生まれた頃、美濃国は土岐氏(ときし)が支配していました。光秀が生まれた場所は美濃国の明智であるといわれています。

土岐氏は源氏の嫡流で、建武の新政から200年にわたって美濃国の守護を務めました。

土岐氏は下克上(げこくじょう)で大山崎の油売りだった斎藤道三(さいとうどうさん)によって滅ぼされます。

美濃国を乗っ取った斎藤道三が守護大名になると、斎藤道三が光秀の才能に注目します。

光秀は斎藤道三の家臣となりました。

斎藤道三の娘濃姫(のうひめ)は織田信長と結婚しますが、この結婚のとき、史料によれば光秀は信長に会ったという記録はありません。

 

 

 



明智光秀が足利義昭の家臣になるまで

足利義昭

 

足利義昭

 

斎藤道三は下克上によって息子の斉藤義龍に倒されます。

斎藤道三が下克上で倒されると、光秀は美濃を追われ、牢人となりました。

牢人となりましたが、13代室町幕府の将軍足利義輝(あしかがよしてる)の家臣となりました。

史料によれば、足利義輝の家臣となると、足軽大将となったという記録が残されています。

足利義輝は13代室町幕府の将軍になり、足利義輝は直接統治を目指しました。

松永久秀

松永久秀

 

一方で、三好長慶(みよしちょうけい)の家臣だった松永久秀(まつながひさひで)は、下克上で三好氏を倒し、将軍義輝の傀儡政権(かいらいせいけん)を目指そうとしていました。

松永久秀と足利義輝は対立するようになり、松永久秀は足利義輝を暗殺しました。

足利義栄(あしかがよしひで)が14代将軍となりますが、将軍在任期間は1年も満たなかったといわれています。

足利義昭(あしかがよしあき)が15代将軍となりますが、地方を転々と逃げる日々が続きました。

若狭の戦国大名武田義統(たけだよしむね)を頼ります。

戦国大名の若狭の武田氏が滅ぶと、越前の戦国大名朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼ります。

 

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信長に上洛を促したのは光秀だった

織田信長に上洛を促したのは光秀だった

 

足利義昭は全国の武将に上洛と将軍の擁立(ようりつ)を促しました。

織田信長(おだのぶなが)も上洛と将軍の擁立を促された武将の1人です。

1回目は細川藤孝(ほそかわふじたか)が使者として織田信長と交渉しました。

当時、信長は美濃に侵攻していましたが、完全に平定できていませんでした。

いったん、斉藤と織田の間に和睦(わぼく)を結ばせましたが、和睦が敗れたため足利義昭の上洛と将軍の擁立は失敗に終わりました。

織田と斉藤の和睦が敗れたため、足利義昭は信長に対して不信感を募らせます。

それで、越前の戦国大名朝倉義景に上洛を促しますが、動こうとしません。

そこで、光秀は足利義昭に信長に上洛を勧めることを提案します。

2回目も使者は細川藤孝で、信長に上洛をするように促しました。

この上洛を促した際、信長への仲介者として明智光秀が史料に載りました。

このシーンは大河ドラマなどでよく取り上げられ、信長と光秀が最初に出会ったといわれています。

   

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

 

今回は明智光秀の生い立ちから織田信長に出会うまでの過程を取り上げました。

明智光秀が信長に出会うまでの過程については知られていない部分が多いといわれています。

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」は、主演が明智光秀役の長谷川博己(はせがわひろき)で、青年期の明智光秀をどのように取り上げるのか注目したいと思います。

織田信長と出会ってから足利義昭と決別するまでの明智光秀については『明智光秀について(2)―織田信長と出会ってから室町幕府滅亡まで―』で

取り上げます。

 

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