蜀の悲運の名将魏延、これといって失点の無い彼の最大の不幸は諸葛亮の後継者として自分とは犬猿の仲である楊儀が選ばれた事でしょう。何があっても楊儀とだけは相容れない魏延は、この時点で反乱を起こすか、魏に降ってしまうか、黙って誅殺されるのを待つか、この3つの道しかありませんでした。結局、魏延は魏に降る事も黙って殺される道も選ばず反乱を起こして散っていくのですが、もし諸葛亮の後継者が魏延だったらどうなったでしょうか?
病床の諸葛亮から大命降下、即座に始まる内なる粛清
病床に伏した諸葛亮は考えました、自分亡き後の蜀の命運の事をです。冒険しない主義の諸葛亮は有能だが危ない橋を渡りたがる魏延を遠ざけて楊儀を自分の後継者にしようと一度は考えますが、結局はジリ貧になるより、魏延を後継者にして一かバチか蜀の命運を天に委ねようという決心をします。
かくして、軍事作戦を授けるという名目で魏延を幕舎に呼び出し、人払いをした上で、自分の亡き後の後継者を魏延にするという書簡を託します。その後、自分の死後の人事を細々と語りますが、恐らく魏延は、それを実行するまいと諸葛亮は思っていました。魏延は事態の切迫を知り、二つ返事で後継者を承諾し「恐れながら丞相の筆で、丞相亡き後の軍の始末は一切を魏延に任す」この一筆をいただけませんか?と念を押します。
諸葛亮は惨劇を察知して鎮痛の面持ちになりますが、承諾し、最期の力を振り絞り、魏延の望む通りの文言をしたためます。まもなく、諸葛亮は危篤状態に陥り死去しました。魏延は、その最期に立ち会うと伏せてあった兵を入れて、諸葛亮の遺言を公開し自らが蜀軍を率いる事を宣言した後で楊儀を捕えて処刑しました。もちろん、表向きには楊儀の死は病死として処理されます。
費禕を抱き込んで成都とのパイプを確保
魏延による楊儀の誅殺を越権だと批判する人間もいましたが、魏延は諸葛亮から受けた軍の始末の一切を任すという一筆を盾に押し切ります。しかし、すべてに対して魏延が高圧的かというとそうではありません。成都に留守番をしている蔣琬と仲が良い費禕については懐柔に努めます。
つまりは、軍事については魏延が握り、内政については費禕と蔣琬に任すという両頭体制による蜀の統治を持ち掛けたのです。すでに、諸葛亮の遺言は魏延を後継者にしており、楊儀も誅殺されている以上、費禕がここで抗えば、自分の運命も決まったようなものです。大義名分より、蜀政権の延命を選んだ費禕は魏延の提案を受け入れます。
そして成都には、諸葛亮の後継者は魏延であり、楊儀はそれに反したので軍令に照らして斬ったという文書を書き送りました。成都の蔣琬は、意外な展開に不安になりますが、すでに北伐軍を握った魏延を認めなければ取って返されて成都を落とされるか、或いは漢中で独立されるかという最悪の選択肢しか存在しません。費禕の文書では、魏延は内政と軍事の両頭体制を望んでいるのであり、成都で独裁者になる事はないと書いてあるのでこれを受け入れます。
魏延、実績作りの為に長安を陥落させる
費禕を懐柔する事により、北伐軍を掌握し堂々と成都に帰還できる事になった魏延ですがそのまま帰還しようとはしませんでした。大きな理由は、諸葛亮を継いだ魏延には、何らの実績もない事です。北伐失敗の軍を率いて成都に帰還するのと、何等かの手柄を立てて帰還するのでは、まったく相手の心証というのが違います。
そこで、魏延は諸葛亮の死を大々的に公表すると同時に、諸葛亮の遺言は自らの骸を長安城まで持っていき、そこで葬れだったとプロパガンダします。意気消沈していた蜀軍は奮い立ち、逆に司馬懿はこれを恐れました。死んだ諸葛亮は絶対不可侵のカリスマに変貌してしまったのです。
五丈原での持久戦は継続しますが、魏延は手数を増やし魏軍に食糧を供給している河東郡へのルートを騎兵で脅かしていきます。神出鬼没の魏延の騎兵隊により、補給が脅かされる魏軍は兵数が多い分、補給不足から来る消耗も激しくなっていきました。いつまでも出撃を許されない魏軍では不満が高まっていきます。
魏延はさらにプロパガンダを続けます。
「司馬仲達は諸葛亮の死に乗じる事も出来ず、いまや格下の魏延を恐れるばかりの保身に凝り固まった臆病者である」
このプロパガンダに魏軍では同調するものが増えてゆきました。
「諸葛亮ならまだしも、その後継者の魏延ごときを恐れるとは何事か司馬仲達は腰抜けであり、魏軍の権威を貶めている」
司馬懿は、これを宥めようと曹叡に勅使の派遣を要請しますが、曹叡にしても強大な諸葛亮ならともかく、魏延相手に持久戦を続ける司馬懿を積極的に擁護するのが難しくなっていました。かくして、司馬懿は持久戦を解いて一戦する事を部下に約束させられます。これこそ魏延の待ちに待った千載一遇の好機でした。五丈原で蜀魏両軍は激突し、孔明の弔い合戦に燃える蜀軍は魏延の指揮もあり魏軍を圧倒して散々に撃破しました。
魏延、長安を陥落させる
司馬懿は用心深く、全ての兵を決戦に投入してはいませんでしたが、敗戦の衝撃は残っていた兵士にも確実に波及していました。勢いに乗る魏延は、さらに五丈原を降りて司馬懿の本隊を追撃する構えを見せこれでは支え切れないと見た司馬懿は退却を決断し
長安城へと後退します。
魏延は、これを追撃して長安城を包囲し河東郡からの補給を止め、さらに河東郡に軍勢を送り込んで陥落させ、その豊富な食糧を奪います。長安陥落の報を聞いた呉の孫権は、これを好機と再び合肥攻略の軍を起こし魏は火が付いたような大騒ぎになっていました。引くに引けなくなった司馬懿に対し、魏延は力攻めと同時に和睦条件を出します。
・今回の北伐の目的は長安の陥落にあるので、長安城さえ明け渡してくれれば、これ以上の軍事行動は行わない
・必要であれば、速やかに蜀魏で不可侵条約を結ぶ用意がある
・不可侵条約を締結すれば蜀呉同盟は破棄される
司馬懿は、この和睦条件を曹叡に送りました。前漢の都である長安を放棄する事は漢の後継王朝を自任する魏の痛恨事ですが蜀呉の両面攻撃をしのぐよりは、まだマシな選択でした。かくして、司馬懿は魏延と和睦し、長安城を放棄、蜀軍が入城して諸葛亮の盛大な葬儀を行いました。蜀が魏と同盟を結んだ事を知った孫権はあっさりと退却、、魏延は長安まで勢力を伸ばし北伐の実を挙げて成都に凱旋したのです。
三国志ライターkawausoの独り言
成都に凱旋した魏延ですが、彼には官僚機構を動かす力はありませんでした。約束通りに二頭体制で政権運営がされる蜀ですが、費禕は早々に魏延と距離を取り劉禅を後ろ盾にし、蔣琬と政治を取り仕切るようになります。劉禅に叛く事が出来ない律義な魏延は次第に成都で孤立する事になりました。
次第に魏延は長安と漢中を拠点にして魏との戦いに人生の意義を見出すようになりほぼ、独立国の首領として振る舞う形になっていきます。しかし、魏延の独立国は、彼のカリスマ性で持っているワンマン王国であり、魏延没後も永続できるような官僚体制を組織する力はありません。こうして、魏延が長寿の後に亡くなると、独立国は崩壊、長安は魏に奪い返され、有力な将軍を失った蜀も、滅亡への道を突き進むのです。
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