中国の古代都市の中でも
長安の名を知らない人は少ないのではないでしょうか。
長安は平安京のモデルになった都市として
中学校の教科書でも紹介されていますからね。
そんな長安の歴史は
前漢王朝から始まっています。
今回は
長安とはどのような場所なのか
どのような歴史を持つ都市なのかを
徹底解説していきます。
この記事の目次
長安は現代の西安市にあたる都市
現代中国地図には
長安という都市をいくら探しても
見つけ出すことはできません。
実は、
長安は明代に至って
西安と名を変えてしまったのです。
西安は現在陝西省の省都であり、
大きな自主権を持つ副省級市にも指定されている
中国でも有数の重要な都市となっています。
前漢の都は長安じゃなかった可能性!?
劉邦がライバル・項羽を下し、
漢王朝を建てることになった際に
都として選ばれた長安ですが、
前漢の都が別の都市になっていた
可能性もあったようです。
最初に劉邦が都の候補と考えていたのは
秦の都である咸陽だったようですが、
咸陽は戦乱によって壊滅状態。
そこで今度は
周の都であった洛陽を都にしようと考えたようですが、
婁敬と張良が
「咸陽近郊は天然の要害に守られている
素晴らしい場所ですぞ!」
と猛プッシュしてきたために
咸陽近郊に新たな城を築き、
長安と命名して都に定めたのでした。
周や秦といった
歴代王朝の都を踏襲するというのが
その当時の一般的な考え方だったのでしょうね。
もしも咸陽が壊滅状態ではなかったら
漢の都は秦と同様
咸陽になっていたのかもしれません。
漢代の長安は碁盤の目になっていなかった
長安といえば平安京のモデルとなった都市ですから
碁盤の目のような都市が形成されていたイメージが強いですよね。
ところが、
碁盤の目のような都市ができたのは
隋唐代以降の話。
漢代の長安は
「都市計画?なにそれ、おいしいの?」
とでも言いたげな
滅茶苦茶な街並みが広がっていたそうです。
ただ、ちょっとしたこだわりはあったらしく、
長安の南は南斗六星、
北側は北斗七星の形をしていた模様。
漢王朝の国号である「漢」も
天の川を表す漢字ですし、
その当時は天と地は対応するものだと考えられていたために
星空を模した都市がつくられたのでしょう。
長安の城内には
長楽宮、未央宮、北宮、桂宮などの宮殿が建てられ、
城外に通じる十二の門が設けられていたようですが、
これらにも何かしらの星が充てられていたのかもしれませんね。
後漢代にもう一度長安遷都が考えられた!?
前漢王朝が王莽の簒奪によって倒された後、
王莽は新王朝を建てました。
しかし、
周王朝を理想とする王莽の姿勢に
多くの人が困惑し、
あちこちで反乱が勃発。
新王朝はわずか15年で幕を下ろし、
漢王朝が息を吹き返すことになりました。
後漢時代の幕開けです。
後漢王朝の初代皇帝である光武帝は
洛陽を都に定め、
安定した政治によって
後漢王朝の礎を築きました。
後漢代には前漢の都だった長安は西都と呼ばれ
後漢王朝の副首都的な役割を果たしていたようです。
しかしあるとき、
後漢王朝4代皇帝・和帝が
何を思ったのかもう一度長安に遷都しようかと考え始めます。
遷都なんてすれば
莫大なお金が飛んでいく上に
人々に大きな負担がかかってしまうということで
多くの臣下がザワつきました。
そんな中、
班固がある賦を詠い上げます。
西都・長安から訪れた客を
東都・洛陽の主人が迎え入れ、
互いにそれぞれの都の良さを語り合うという内容の賦です。
これは「両都賦」という
『文選』にも掲載されている賦で、
「洛陽の方が素晴らしい所だよ」
ということを暗に示すことによって
和帝に遷都を諦めさせるために
詠まれたものだったと言われています。
もしも
班固が「両都賦」を詠わなかったら
長安への遷都が実現されていたかもしれませんね。
ただ、
後漢末の動乱期には董卓によって
長安に遷都されてしまうという
ハプニングも起こっていますが…。
その後も多くの王朝の首都に
長安は漢王朝の後にも
多くの王朝の都となりました。
五胡十六国時代の前趙、前秦、後秦や
南北朝時代の西魏、北周、
そして隋、唐が挙げられます。
おそらく多くの王朝が
漢王朝の栄光にあやかろうと考えて
長安を都に定めたのでしょうね。
三国志ライターchopsticksの独り言
長安は時代を経るごとに
どんどん姿を変えていきました。
あまりの変身ぶりに
多くの人が驚くことでしょう。
しかし、
よくよく考えてみれば
昔のまま変わらない都市を見つける方が
存外難しいのかもしれませんね。
皆さんが住んでいるところも
昔と今では随分印象が違うのではないでしょうか。
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