周倉といえば関羽の側近として常に付き従っていた忠義の人というイメージを思い浮かべる人が多いでしょう。彼の活躍ぶりはまさに臣下の鑑と言えます。
ところが、周倉は『三国志平話』や『三国志演義』などの『三国志』をモデルとした作品の上でだけ登場する架空の人物。そのため、『三国志演義』を読んで周倉を知った人が正史『三国志』を読んで「周倉がいない!?」とガッカリすることも多いのではないでしょうか。
しかし、気を落とすのはまだ早いですよ。存在はしていなくとも周倉のモデルとなった人物はいたはずです!今回は、周倉のモデルとなった人物は誰なのか、周倉のモデルとなった人物はどのような人物であったのかについて皆さんにご紹介したいと思います。
周昌という人物が周倉のモデル?
周倉のモデルについては二階堂善弘「関帝信仰と周倉」(2014年4月)において『道法会元』という書物を取り上げ、漢の高祖・劉邦に仕えた周昌という人物ではないかと言及されています。
この『道法会元』とは宋元代に編まれた著者不明の道教にまつわる書物で、方術・道術のテキストとして知られている書物です。
実は関羽は、関帝廟の存在からも推し量ることができるように道教の神様として祀られているため、この『道法会元』にも登場。『道法会元』巻259においては関羽の宝刀を持つ者として「周昌」の名が挙げられています。このことから周昌が周倉のモデルであると考えられるのではないかと二階堂先生は考えたようですが、果たしてその説は正しいのでしょうか…?
周昌と周倉の共通点はあるの?
先ほどご紹介した通り、周昌は前漢時代の人物ですから、周倉はもちろん『三国志』の時代とは縁遠い存在のように思われます。共通点といえば「周」という名字ですが、その当時「周」という名字の人はごまんと存在していたはず。ただ名字が同じだからといってモデルとして仕立て上げるのは無理があるでしょう。普通、モデルとするならば、性格や行動が特出している人物のはずです。というわけで、周倉と周昌の美点として共通項が無いのかを洗い出していきましょう。
周昌は『史記』において司馬遷に木や石のように実直であると評されています。彼は直言の士として高祖・劉邦相手でも歯に衣を着せることなく諫言を言い続けました。このような点から、周昌もまた忠義の臣であると言えますが、同じ忠義の臣と言っても周倉とはまた別のタイプの人物であったことが窺えます。
周倉にも魯粛に対して「天下の地は徳ある者のものであり、呉のものではない!」と啖呵を切ったエピソードがありますが、これは関羽と打った芝居の一部であり、また直言とは違うものです。これらのことに鑑みるに、周昌が周倉のモデルとなった人物であると考えるのは難しいことのように思われます。
ただの写し間違えでは…?
『道法会元』の記述を信頼し、周倉のモデルを周昌と結論づけるのはいささか難しいように思われます。なぜなら、そもそもその『道法会元』の記述自体が誤りである可能性も否めないからです。中国の書物は宋代までは手書きで書き写されて伝えられ、それ以降も手彫りで印刷して伝えられてきました。
そのため、どうしても伝写の誤りが生じていたのです。この『道法会元』における「周昌」の「昌」も別の人物の名前であった可能性は大いにあります。このことについては二階堂先生自身も疑うところのようですが、その真実を明らかにするには容易ならざる道のりが待っていることでしょう。
三国志ライターchopsticksの独り言
以上のことから周倉のモデルとなった人物を周昌とするのは少し難しいと考えるべきでしょう。周倉に関係しそうな記述から周倉のモデルを求めるという二階堂先生の手続きも必要なことではあると思いますが、モデルというからにはその人物の人となりや行動の元となったであろうエピソードを持つ人物をつぶさに当たっていく方が適切な方法なのではないかと思われます。
周倉のモデルについては、研究の余地が大いにあります。皆さんもぜひ周倉のモデルについて研究してみてはいかがでしょうか。
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