赤壁の戦いで少数精鋭の孫呉の軍勢を率いて、魏の大軍を打ち破った周瑜。しかし周瑜は若くして亡くなってしまいます。どうして周瑜は病気で亡くなってしまったそうですが、いったいどのような病気で亡くなってしまったのでしょうか。
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周瑜の死因を正史三国志で調べてみたら…。
周瑜はどのような病気で亡くなってしまったのでしょうか。正史三国志呉書・周瑜伝を調べてみました。
正史三国志呉書の周瑜伝によると周瑜は劉璋を攻略するべく孫権と話し合いを終えた後、江陵へ向けて帰るため船に乗って移動。しかし周瑜は江陵へむかう途中にある巴丘という場所で病気によって亡くなったとの記載があるだけで、どのような病気にかかって亡くなったのか詳しいことは書かれていませんでした。
そのためいろいろな書物を探し回ってみましたが、周瑜がどのような病気によって亡くなったのか確証できる書物を見つけることができませんでした。
周瑜は何の病気で亡くなったのか「予想編」その1:江陵攻防戦で受けた矢傷
では周瑜はいったいどのような病気で亡くなったのでしょうか。ここからはレンの推測編になりますのでご了承ください。
レンは周瑜が江陵攻防戦で受けた矢傷が原因で亡くなったのではないのかなと考えています。周瑜は赤壁の戦いの後、曹操の領土になっていた荊州の江陵城を奪うべく出陣。この戦いで周瑜は敵兵から放たれた矢によって傷を負ってしまいます。
その後周瑜は矢傷を負いながらも指揮を執って江陵城の攻略を成功させます。この江陵攻防戦で周瑜は受けた矢傷を回復することができず、死因につながったのではないのでしょうか。現代では擦り傷や切り傷など傷を負った場合、すぐに消毒してしまえばある程度自然に治すことができます。
消毒してももし悪化すれば病院に行って治療をすれば、ひどくなること切り傷や擦り傷を治すことができます。三国時代にも医者はいたでしょうが、現代のように医療が発達していていなかったはずです。そのため周瑜は受けた矢傷が本回復する前に悪化し、亡くなってしまったと考えることができるのではないのでしょうか。
周瑜の死因「予想編」その2:「蒼天航路の周瑜の死因から考える」
レンはほかにも周瑜の死因について、ストレスからくる胃潰瘍だったのではないのかなとも考えています。
蒼天航路の周瑜は孫権と劉璋を討伐し、その後曹操率いる魏を討伐する計画「天下二分の計」について話し合ったのち、荊州へ帰還するために船に乗り込みます。その後周瑜は船を出したのち、体に変調をきたし、血をドバっと吐血しながら孫権宛へ遺書を書いて亡くなってしまいます。
レンは蒼天航路の周瑜が亡くなるシーンからある病気を予想しました。それは周瑜がストレスによる胃潰瘍のせいで亡くなったのではないのかなと予想しました。周瑜は孫呉の重臣や孫権から大きな期待を寄せられていました。
また対外的には北方の曹操軍との軍事・外交などの負担や荊州南部にいる同盟相手・劉備との政治的な駆け引きなどの負担を抱えていたと思われます。ほかにも劉璋を討伐した後の戦略面などの負担もあったでしょう。
これらの負担が周瑜の知らない間に自らの体にストレスがたまり、胃潰瘍として発病してしまったのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
周瑜がどのような病気にかかって亡くなったのか詳細がわからないため、今回はレンの予想による周瑜がどのような病気にかかって亡くなったのか紹介しました。
あくまでこれらはレンの予想と妄想を組み合わせたものなので確定的なことは何一つ言えませんが、当たらなくても遠からずと思いせんか。
■参考 ちくま学芸文庫 正史三国志呉書など
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