陸遜といえば夷陵の戦いでの功績。この戦が印象に残っている読者も多いことでしょう。
では、具体的にどんな戦法や計略で陸遜は劉備を追い込んだのでしょうか。
詳しく見ていきましょう。
蜀の命運を分けた夷陵の戦い
結論から述べると劉備は夷陵の戦いに敗れ、白帝城に逃げ込みます。
まもなく本拠地を白帝城に移し、好機を待つのですが、くしくも病気で命を落とします。夷陵の戦いで劉備が敗北しなければ、白帝城で絶命することもなかったでしょう。
一度は陸遜も劉備に追い込まれた?
鮮やかに勝利したかのように語られる陸遜の夷陵の戦いでの智謀知略。実は初戦で不利な状況に陥っています。
陸遜率いる呉軍は5万。対する蜀軍は1万の異民族軍を送っています。後方に正規軍4万が控えているという状況。
当時、戦いのあった夷陵一帯は夏でした。現在でも中国の三大ストーブと呼ばれるほど酷暑のエリア。
武具を身に付けた軍隊がどれほど苦しかったかは容易に想像できるでしょう。
蜀軍が暑さにやられ、好機と見た陸遜は攻撃に出ます。しかし、戦況は芳しくありませんでした。
夷陵の戦いの前半において、呉軍は形勢不利だったのです。
陸遜のDNA
軍師・陸遜、脳細胞には様々な計略が浮かび上がります。不利な戦況に陥った陸遜は夷陵の戦いで火攻めを提案します。
蜀の張った陣に火を放ち西へ西へと追いやろうとしたのです。
陣を焼かれては退散するしかないと蜀軍は西へと移動を開始します。その最中、呉の孫桓は挟み撃ちに遭います。
しかし、陸遜は援軍を出さず、必殺技があるので耐えるよう鼓舞するのです。
計ったかのように陸遜は水軍を使って長江を封鎖。やがて、夷道を死守した孫桓は蜀軍を東西に分断させることに成功します
畳み掛けるように陸遜は、夜中に川を上り、40あまりの蜀軍の陣営を焼き払うのです。元は退路を確保するために蜀軍が敷いた陣営。
蜀の陣営が火に弱いと見た陸遜は一夜にして蜀の陣営を殲滅せたのです。
蜀軍の被害は甚大で将領・劉寧と杜路は投降。都督の馮習や異民族軍の沙摩柯は殺されます。
夜中に劉備は包囲を抜け、命からがら潰走するのでした。
まさに陸遜一人に蜀の親玉が負けた瞬間だったのです。
呉軍の武将が当初、陸遜の戦略に懐疑的だったことから、陸遜なくして呉軍のビクトリーはなかったでしょう。
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陸遜の着眼点
なぜ、陸遜は仲間の孫桓に援軍を出さず、耐えるよう言い渡したのでしょうか。そもそも大軍での戦いは戦力が分断されることが致命傷につながります。
孫桓が夷道を死守することで蜀軍は東と西の二つに陣営を分断されます。
長江は水軍によって封鎖されていますから、前線の部隊は戻ることも進むこともままなりません。
さらに劉備は補給路を確保するためと長江のそばに無数の陣営を作ります。
確かに補給路を確保することは大事ですが、最優先事項ではありません。それよりも兵力が二分される方が痛手となります。
さらに長江が水軍によって封鎖されていることも考慮されていないのです。
一般的に兵の移動は陸より水の上を行く方が快適で迅速です。どうして劉備はそれを見抜けなかったのでしょうか。
一つに”地の利”をうまく活用していなかったことが挙げられます。専ら地上戦の多い蜀軍は水上戦に弱かったのです。ロシア帝国のバルチック艦隊が大日本帝国の海軍に負けたのに似ています。夷陵を戦いの地に選んだ時点で劉備は負けていたのかもしれません。
劉備の跡継ぎは?
夷陵の戦いが西暦222年。劉備が亡くなったのは一年後の西暦223年です。
劉備は白帝城をホームにしてから一度も引っ越すことはありませんでした。とどのつまり、劉備は陸遜に寿命を縮められたと言っても過言ではないでしょう。
劉禅が形式の上では跡継ぎになりますが、実質的には諸葛亮が蜀の実権を握ります。曹家のあと、魏の国で牛耳を執ったのが司馬一族であったように蜀でも軍師がナンバーワンになります。
三国志ライター 上海くじらの独り言
陸遜の計略と劉備の最期をテーマに書きました。戦好きの方は、するすると読めたことと思います。
これを機にマンガの三国志やゲームの三国無双をもう一度プレイしてみるのも一興です。
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