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澶淵の盟の背景は?燕雲十六州を巡る争いの歴史について解説

2019年3月30日


 

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澶淵の盟 北宋と遼の盟約

 

北宋(ほくそう)(960年~1127年)の景徳元年(1004年)に、北宋第3代皇帝の真宗(しんそう)は北方の(りょう)(916年~1125年)と和議を結びました。

 

澶州(せんしゅう)(現在の河南省濮陽市)で結んだことから、この和議を「澶淵の盟(せんえんのめい)」と呼びます。

さて、この和議が結ばれるまで北宋やそれ以前の王朝が(りょう)と争った土地は、「燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)」(現在の北京から大同市付近)と言います。

 

どのような争いの歴史があったのでしょうか。

今回は澶淵の盟に至るまでの燕雲十六州を巡る争いの歴史を解説致します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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後唐の内乱

 

時は乱世の五代十国時代(907年~960年)の出来事です。後唐(923年~936年)の応順元年(934年)に、第3代皇帝の閔帝(びんてい)は義兄弟の李従珂(りじゅうか)に帝位を簒奪されました。

 

こうして李従珂が新しい皇帝になりました。

 

これが後唐最後の皇帝の末帝(まってい)です。一般には末弟で知られているので、ここでは末帝で通します。

 

ところが、この即位に納得しない人物がいました。それは後唐第2代皇帝明宗(めいそう)の娘婿の石敬唐(けきけいとう)です。

 

石敬唐は娘婿の自分こそ、帝位を継ぐにふさわしいと思っており反乱を起こすための蓄財をしていました。それに気付いた末帝は、急いで配置転換の命令をしました。命令を聞いた石敬唐は、ますます納得しません。考えた末に出した結論は、反乱を起こす事でした。

 

ところが、思った以上に兵力が集まりません。悩んだ末に石敬唐は、ある事を思いつきました。

 

 

 

燕雲十六州を与える

「遼」の国旗をバックとした兵士

 

当時、北方には新興勢力の契丹(後の遼)がおり、勢いが盛んでした。

 

石敬唐は彼らに助けを頼むことにしました。もちろんタダではなく、河北と山西の土地の割譲を条約を提案しました。

 

明け渡す土地は次の通りでした。カッコ内は現在の位置。

 

  • 幽州(北京)、(2)薊(けい)州(薊県)、(3)瀛(えい)州(河間県)、

(4)莫州(任邱県)、(5)涿(たく)州(涿県)、(6)檀(だん)州(密雲県)、

(7)順州(順義県)、(8)新州(涿鹿県)、(9)嬀(ぎ)州(懐来県)、

(10)儒州(延慶県)、(11)武州(宣化県)、(12)蔚(うつ)州(蔚県)、

(13)雲州(大同市)、(14)応州(応県)、(15)寰(かん)州(朔県東北)、

(16)朔州(朔県)

 

石敬唐これだけではなく、貢物の献上を毎年行うこと、さらに契丹国王は父親・自分は子供という関係も約束しました。

こんな条約はやり過ぎであると、部下は反対しました。

 

しかし、兵力が足りなかった石敬唐は強硬的に押し通しました。さて、条約を聞いた契丹は大喜びで積極的に協力してくれました。

 

後唐の清泰3年(936年)に契丹と共同戦線により石敬唐は後唐を滅ぼして、後晋(936年~946年)を建国しました。建国後に石敬唐は皇帝に即位しました。これが後晋の高祖(こうそ)です。

 

石敬唐が一般に知られているので、ここでは石敬唐で通します。石敬唐は協力してくれた契丹には約束通り、土地はしっかりと与えました。

 

北宋・南宋

 

 

燕雲十六州を巡る争いの勃発

 

石敬唐は存命中は上記の約束をしっかりと守りました。

 

ところが、石敬唐の後を継いだ第2代皇帝の出帝(しゅってい)は、契丹に対して強硬的な人物でした。また、周囲の部下も石敬唐の方針には反対が多かったので、契丹に対して宣戦布告をしました。

 

激怒した契丹は後晋を攻めますが、後晋の激しい抵抗にあって2回も追い返されました。しかし開運3年(946年)に3度めの遠征で、後晋を攻め滅ぼし、出帝を本国まで拉致しました。

徽宗は北宋の第8代皇帝

 

この事件から約180年後の靖康2年(1127年)に、北宋第8代皇帝徽宗(きそう)・9代皇帝欽宗(きんそう)親子が金(1115年~1234年)の本国に拉致される「靖康の変(せいこうのへん
)
」が起きます。

 

歴史は繰り返されるのです。

 

燕雲十六州の一部奪還

 

五代十国時代も末期になり、後周(951年~960年)の時代になりました。後周の第2代皇帝の世宗(せいそう)は名君でした。

 

馬に乗って戦う若き織田信長

 

日本の織田信長(おだのぶなが)と比較される人物として有名です。

 

顕徳6年(959年)に世宗は自ら出陣して、燕雲十六州の奪還にかかりました。陸軍総大将は韓通(かんつう)、水軍総大将は趙匡胤(ちょうきょういん)でした。

 

趙匡胤は後の北宋初代皇帝太祖です。この遠征の結果、莫州・瀛州の2つの奪還に成功しました。

勢いに乗じて幽州も奪還する予定でしたが、惜しいことに世宗は病に倒れて世を去りました。

   

 

北宋の燕雲十六州奪還作戦と失敗、そして澶淵の盟へ

 

建隆元年(960年)に北宋は建国されますが、初代皇帝太祖の時に燕雲十六州奪還作戦は実行されませんでした。太祖は国内の政策や江南・四川の軍閥の制圧に時間をかけたので、燕雲十六州奪還に時間を割くことは出来なかったのです。

 

太宗

 

実行に移されたのは、第2代皇帝太宗(たいそう)の時代でした。太平興国4年(979年)破竹の勢いで攻めた北宋は、幽州城を包囲しました。しかし、激しい抵抗にあうだけでなく、契丹の名将の耶律休哥(やりつきゅうか)の率いる援軍の前に敗北しました。

 

この戦を「高梁河の戦い」と言います。

 

太平興国5年(980年)には耶律休哥が、北宋の要塞の瓦橋関(がきょうかん)を撃破して、かつて奪還した莫州にも侵攻したという報告が入りました。太宗は出陣しましたが、すでに逃げられたあとでした。

 

この戦を「瓦橋関の戦い」と言います。雍熙3年(986年)に、太宗は契丹征伐に出陣しました。

 

北宋は次々と勝利しました。だが、太宗はこれに嫌な感じがして、諸将にゆっくりと進むように伝えました。

 

ところが、功績を争うを諸将は、太宗の命令を無視して進撃しました。これは耶律休哥の罠でした。

 

わざと負けて相手を奥地に誘い込み、兵糧が尽きるのを待つ作戦でした。北宋は涿州西南の岐溝関(きこうかん)で兵糧が尽きて、そこを契丹に攻撃されて敗北しました。

 

この戦を「岐溝関の戦い」と言います。

 

『楊家将演義』で有名な楊業(ようぎょう)はこの時の戦で捕虜になり、絶食して命を落としました。3度の戦に敗北した北宋は和平の方向に傾斜していきます。

 

そして、景徳元年(1004年)に澶淵の盟が結ばれたのでした。

 

宋代史ライター 晃の独り言

 

以上が、燕雲十六州を巡る争いの歴史の話です。

 

余談ですが、高梁河の戦いは宋側の官選史料には敗戦として記されていません。兵士が疲れたから帰還したと記されているのです。

都合が悪いから、記さなかったのです。その代わり個人執筆の随筆や、遼側の史料にはしっかり敗戦と記されています。

 

※参考文献

宋の太祖と太宗―変革期の帝王たち (1975年)

 

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北宋・南宋

 

 

 

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