司馬懿の生い立ちと家系の謎に迫る!司馬懿が生まれた時代背景まで解説

2019年3月30日


 

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孔明 vs 司馬懿

 

曹操(そうそう)曹丕(そうひ)に仕え、東晋(とうしん)の礎を築いた司馬懿(しばい)諸葛亮(しょかつりょう)五丈原(ごじょうげん)で戦ったのは有名なできごとでした。

 

では、司馬懿の家柄や士官(しかん)するまでにどんな生い立ちをたどったのでしょうか。ここでは司馬懿の若かりし頃にフォーカスしていきます。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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司馬一族とは?

司馬懿

 

司馬とは姓ですが、その由来は商王朝の官職名にあります。商王朝時代に”夏官(かかん)”という役職が存在したのですが、(しゅう)の時代に入り”司馬(しば)”と改めます。

 

司馬懿が頭を下げても堂々とする常林

 

先祖に当たる”程伯休父”が戦功を立てたことから周宣(しゅうせんおう)から司馬姓を賜ったのです。そして、時は流れ十二代前の先祖である司馬卯が河内郡(かわちぐん)に定住します。

 

 

 

司馬懿が生まれた時代背景

司馬懿仲達

 

司馬懿は司馬防(しば ぼう
)
の次男坊で幼い頃からポーカーフェイスでした。常に胸のうちで策を巡らせ、うまく立ち回る子どもだったようです。そんな司馬懿が産声を上げたのは前漢の末、まさに戦乱の世でした。常に世の中を憂いていたと言われます。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの

 

 

南陽太守・楊俊との出会い

 

曹操(そうそう)の大臣であった楊俊(ようしゅん)安陵令(あんりょうれい)、南陽太守などの職に任命されます。南陽とは地名で太守は地位を指します。南陽郡のトップという意味あいで、現代の日本でいう県知事ぐらいの力を有しています。

 

楊俊もまた軍師として活躍し、主に南部方面を指揮しました。その善良として知られる楊俊が司馬懿に出会いうのです。まさに運命の出会いと言えるでしょう。それは司馬懿が二十歳にも満たない頃のことでした。

 

司馬懿

 

楊俊(ようしゅん)は司馬懿のことを”非凡な才能を持つ子どもである”と称賛しています。軍師として曹操から抜擢されていた楊俊の言葉だけに重いセリフです。この頃から司馬懿には軍略家としての才が備わっていました。

 

 

司馬懿の墓

 

司馬懿は西暦179年に生を受け、251年に亡くなるまで72歳という長寿を全うします。楊俊は、その長い生涯を軍師として生きることを予見していたのかもしれません。

 

 

司馬懿の交友関係

司馬懿から頼まれる孫礼

 

司馬懿は曹操の策士として仕えていた崔琰(さいえん)や政治家の司馬朗とフレンドリーな関係を築いていました。身近に策士がいたのも将来の司馬懿に影響を与えたのでしょう。

 

傑出した人物とは、その周りの人たちも優れているのです。戦乱の世にありながら、このような環境が軍師・司馬懿を育てたのかもしれません。

 

司馬懿が士官するまで

司馬懿と曹操

 

西暦201年。司馬懿は”司空(しくう)”の役職に就いた曹操に取り立てられます。

 

司空とは司馬、司寇、司士、司徒とならぶ古代中国の職位の一つ。5つあるので”五官”と呼ばれました。曹操の配下になりたくなかった司馬懿は病気と称して断ります。しかし、曹操はそれを信じず、もう一度部下を派遣して、様子を見に行かせます。

 

すると司馬懿は横たわり、身動き一つしなかったそうです。

 

曹操

 

西暦208年。曹操は何としても司馬懿を連れてこようと”文学掾(ぶんがくじょう)”を遣わします。強硬手段に出た曹操に恐れをなした司馬懿は、ついに折れるのです。最初の接触から7年の歳月が流れていました。

 

司馬懿を欲しがってた曹操

 

7年かけてでもヘッドハンティングしたいと思った曹操は、司馬懿の才覚に気付いていたのでしょう。もしかしたら、曹操の策士だった崔琰と司馬懿が交流を深めていたのは曹操に取り立てられるためだったのかもしれません。

 

こうして司馬懿の軍師としての歴史が幕を開けたのです。

 

 

もし曹操が司馬懿をヘッドハンティングしなかったら…

司馬懿と諸葛亮孔明のトランプ勝負

 

ここからはあくまでも推測ですが、諸葛亮も21世紀に至るまで名を残すことはなかったかもしれません。理由としてはライバルの存在として司馬懿があったからです。

 

 

孔明と司馬懿

 

軍師とは直に戦場に出向くことはありません。しかしながら、兵の数や攻城兵器などによって戦況を把握することができます。仮に相手の軍師が優秀であれば、なかなか攻め落とすことはできないはずです。

 

司馬懿と魏延

 

中国の習慣として、たとえ敵でも腕の立つ武将や軍師は戦った後に仲間に引き入れるケースがあります。旧日本軍が満州時代に使用していたビルを現在も中国政府が利用していることからも納得ができます。

 

三国志ライター 上海くじらの独り言

三国志ライター 上海くじら

 

あまり知られていない司馬懿の生い立ちについて紹介しました。三国志では職位と人名が混ぜこぜになることもあると思います。現代の中国語を学んでも古代中国の職位までは、なかなか理解できません。一方で姓名に関しては詳しくなるので、三国志を機に中国語の世界に触れるのも乙なものです。

 

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民間伝承の三国志

 

 

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上海くじら

三国志との出会いは高校生の頃に読んだマンガの三国志。 上海留学中に『三国志演義』の原文を読む。 また、偶然出会った中国人と曹操について語り合ったことも……。 もちろんゲームの三国無双も大好きです。 好きな歴史人物: 曹操、クリストファー・コロンブス 何か一言: 覇道を以って中原を制す

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