【謎の国】東丹国と悲劇の国王・耶律突欲はどんな生涯を送ったの?

2019年4月5日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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耶律阿保機

 

契丹(きったん
)
(後の(りょう))の天顕元年(てんけんがんねん(926年)に契丹の初代皇帝の耶律阿保機(やりつ あぼき
)
は、朝鮮半島にあった渤海国(ぼっかいこく)(698年~926年)を討伐しました。討伐は見事に成功して、渤海国(ぼっかいこく)は滅亡しました。しかし耶律阿保機は帰路で病にかかり耶律阿保機は亡くなりました。

 

享年55歳でした。ところで、耶律阿保機は渤海国に皇太子の耶律突欲(やりつとつよく)をのこして統治させていました。

 

耶律突欲

 

その国の名は東丹国(とうたんこく
)
と言います。今回は東丹国とそこの統治者である皇太子の耶律突欲(やりつ とつよく
)
に関して解説します。

 

自称・皇帝
当記事は、
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「耶律突欲 どんな人生」
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嫌われ者の皇太子

 

東丹国(とうたんこく
)
の統治を任されていた耶律突欲でしたが、どうもあまり好かれていなかったようです。

 

誰に?

 

父の耶律阿保機と母の述律(じゅつりつ)皇后からです。2人とも可愛がっていたのは、弟の堯骨(ぎょうこつ)でした。

 

太宗

 

堯骨は後の(りょう(916年~1125年)の第2代皇帝太宗(たいそう)です。

 

父の耶律阿保機は堯骨(ぎょうこつ)を見て、「俺の家を発展させるのは堯骨だ!」と根拠の無いことを言うし、述律皇后(じゅんきんじゅつりつこうごう
)
は夫の言葉を真に受けていたのです。2人そろって親バカです。これでは耶律突欲が可哀そうです。

 

 

 

戦争で功績を挙げる耶律突欲

 

父と母に見放されたからといって、耶律突欲は別に腐っていたわけではありません。仕事はしっかりとしていました。

 

耶律阿保機に従ってタングート族や後唐(こうとう
)
(923年~936年)の初代皇帝の李存勗(りそんきょく)を相手に戦いました。また、天顕元年(てんけんがんねん)(926年)の渤海征伐にも従軍して功績を挙げました。このように耶律突欲は戦争で活躍していたことが記されています。

 

北宋・南宋

 

 

 

日本とも交流を行う耶律突欲

 

ところが、耶律突欲の実力は戦争だけでは終わりません。なんと日本とも交流を行っていました。

 

天顕2年(927年)に耶律突欲は日本に対して、渤海国から新しく東丹国に代わったことを知らせるために日本に使者を派遣しました。ところが、派遣した裴璆(はいきゅう)は元・渤海国の家臣でした。

 

日本に到着すると、東丹国の悪口をペチャクチャと述べていました。日本の朝廷は『サ〇エさん』の波〇状態になり、「ばかもん!!」と怒鳴りつけました。

 

「新しい主人の悪口を言うとは何事だ!」と日本の朝廷は裴璆を追い返しました。

 

 

後唐に亡命 事実上の滅亡

 

契丹の本国では、弟の堯骨が即位しました。第2代皇帝太宗です。

 

太宗は耶律突欲に本国に戻るな、と命令しました。結局、太宗からの暗殺を恐れた耶律突欲は天顕5年(930年)に、今まで敵対関係だった後唐に亡命しました。

統治者がいないので、東丹国はこの時点で事実上の滅亡です。

 

後唐の第2代皇帝明宗(めいそう)は名君だったので、耶律突欲を保護してくれました。

後唐の内乱

 

後唐の長興(ちょうこう)4年(933年)に明宗が亡くなると、次に即位したのは閔帝(びんてい)でした。ところが、義兄弟の李従珂(りじゅうか)がこの即位に反対しており、あっさりと帝位を簒奪(さんだつ)されました。

 

こうして李従珂が新しい皇帝になりました。これが後唐最後の皇帝の末帝(まってい)です。ところが、この即位に納得しない人物がいました。それは後唐第2代皇帝明宗(めいそう)の娘婿の石敬唐(けきけいとう)です。

 

石敬唐は娘婿の自分こそ、帝位を継ぐにふさわしいと思っており反乱を起こすための蓄財をしていました。一方、保護されていた耶律突欲も李従珂の即位に反対でした。2人が考えた末に出した結論は、反乱を起こす事でした。

 

燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう
)
を与える

 

耶律突欲は弟の太宗に連絡をとりました。石敬唐を助けることと今までのことを全て水に流そうと伝えました。もちろんタダではなく、河北(かほく)山西(さんせい)の土地の割譲(かつじょう
)
を条約を提案しました。

 

明け渡す土地は次の通りでした。カッコ内は現在の位置。

 

幽州(ゆうしゅう
)
(北京)、(2)薊州(けいしゅう)(薊県)、(3)瀛州(えいしゅう)(河間県)、 (4)莫州(任邱県)、(5)涿州(たくしゅう)(涿県)、(6)檀州(だんしゅう)(密雲県)、(7)順州(じゅんしゅう)(順義県)、(8)新州(しんしゅう)(涿鹿県)、(9)嬀州(ぎしゅう)(懐来県)、(10)儒州(延慶県)、(11)武州(ぶしゅう)(宣化県)、(12)蔚州(うつしゅう)(蔚県)(13)雲州(うんしゅう)(大同市)、(14)応州(おうしゅう)(応県)、(15)寰州(かんしゅう)(朔県東北)、(16)朔州(さくしゅう)(朔県)

 

条約を聞いた太宗は大喜びで積極的に協力してくれました。後唐(こうとう)清泰(せいたい)3年(936年)に契丹と共同戦線により石敬唐(せき けいとう)は後唐を滅ぼして、後晋(こうしん)(936年~946年)を建国(けんこく)しました。

 

建国後に石敬唐は皇帝に即位しました。これが後晋の高祖(こうそ)です。石敬唐は協力してくれた契丹(きったん)には約束通り、土地はしっかりと与えました。

 

耶律突欲の最期

 

ところで耶律突欲は、どうなったのでしょうか。実は彼は翌年に亡くなりました。李従珂は耶律突欲の内通を恨んで、暗殺者を放っており、あっけなく殺されました。

 

宋代史ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が、東丹国とその国王耶律突欲の生涯でした。耶律突欲の息子はその後、挙兵して自分の父を雑に扱った祖母の述律皇后を倒しました。これが(りょう)の第3代皇帝世宗(せいそう)です。

 

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晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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