契丹(後の遼)の天顕元年(926年)に契丹の初代皇帝の耶律阿保機は、朝鮮半島にあった渤海国(698年~926年)を討伐しました。討伐は見事に成功して、渤海国は滅亡しました。しかし耶律阿保機は帰路で病にかかり耶律阿保機は亡くなりました。
享年55歳でした。ところで、耶律阿保機は渤海国に皇太子の耶律突欲をのこして統治させていました。
その国の名は東丹国と言います。今回は東丹国とそこの統治者である皇太子の耶律突欲に関して解説します。
「謎の国 東丹国」
「東丹国 耶律突欲」
「耶律突欲 どんな人生」
などのワードで検索する人にもオススメ♪
関連記事:宋代の文学作品『宋名臣言行録』とは?分かりやすく解説
関連記事:貨幣や紙幣は宋代に誕生したの?宋代の経済生活を分かりやすく解説
この記事の目次
嫌われ者の皇太子
東丹国の統治を任されていた耶律突欲でしたが、どうもあまり好かれていなかったようです。
誰に?
父の耶律阿保機と母の述律皇后からです。2人とも可愛がっていたのは、弟の堯骨でした。
堯骨は後の遼(916年~1125年)の第2代皇帝太宗です。
父の耶律阿保機は堯骨を見て、「俺の家を発展させるのは堯骨だ!」と根拠の無いことを言うし、述律皇后は夫の言葉を真に受けていたのです。2人そろって親バカです。これでは耶律突欲が可哀そうです。
戦争で功績を挙げる耶律突欲
父と母に見放されたからといって、耶律突欲は別に腐っていたわけではありません。仕事はしっかりとしていました。
耶律阿保機に従ってタングート族や後唐(923年~936年)の初代皇帝の李存勗を相手に戦いました。また、天顕元年(926年)の渤海征伐にも従軍して功績を挙げました。このように耶律突欲は戦争で活躍していたことが記されています。
日本とも交流を行う耶律突欲
ところが、耶律突欲の実力は戦争だけでは終わりません。なんと日本とも交流を行っていました。
天顕2年(927年)に耶律突欲は日本に対して、渤海国から新しく東丹国に代わったことを知らせるために日本に使者を派遣しました。ところが、派遣した裴璆は元・渤海国の家臣でした。
日本に到着すると、東丹国の悪口をペチャクチャと述べていました。日本の朝廷は『サ〇エさん』の波〇状態になり、「ばかもん!!」と怒鳴りつけました。
「新しい主人の悪口を言うとは何事だ!」と日本の朝廷は裴璆を追い返しました。
後唐に亡命 事実上の滅亡
契丹の本国では、弟の堯骨が即位しました。第2代皇帝太宗です。
太宗は耶律突欲に本国に戻るな、と命令しました。結局、太宗からの暗殺を恐れた耶律突欲は天顕5年(930年)に、今まで敵対関係だった後唐に亡命しました。
統治者がいないので、東丹国はこの時点で事実上の滅亡です。
後唐の第2代皇帝明宗は名君だったので、耶律突欲を保護してくれました。
【次のページに続きます】