どんなものでも、そこに至るまでの経緯があります。それはもちろん、歴史でも同じ。
その経緯を知ることは、よりその事象を深く、詳しく知ることに結びつきます。
今回は三国志の夷陵の戦い、そこに至るまでの経緯をお話します。
樊城の戦いから全てが始まる
夷陵の戦いの前提、というかその発端とも言えるのがその前にあった樊城の戦い。
樊城の戦いで関羽が敗れたことで蜀は荊州を失います。
山間部にある蜀にとって戦いの足掛かりとして荊州の土地は非常に重要でしたが、それを失ってしまったのです。
また関羽と言えば劉備の旗揚げ時代からの仲間であり、義兄弟の一人。
この関羽を呉、そして魏の同盟によって打ち取られたことで劉備は復讐に燃えて戦争を始めた…と多くの場合では夷陵の戦いの発端として書かれています。
関羽の死から暫くして、歴史が動く
関羽の死から1年ほど経って、歴史的大事件が起こります。因みにまだ夷陵の戦いなどは起こっていません。
1年経ってもまだ夷陵の戦いが起こっていないと言うのも、一体劉備は何をしていたのか?と言われる理由の一つです。
この歴史的大事件というのは皆さんご存知、魏の曹丕と献帝による禅譲です。
220年、曹丕が魏王朝を開きました。
献帝が曹丕に帝位を譲ったのです。これはとてつもなく大きな出来事です。
世界史の教科書に載っているレベルの出来事です。
しかし大きな出来事なのは、歴史的に見てだけではありません。劉備にとっても、非常に大きな出来事になっているのです。
蜀と劉備は「これ」を認められない…!
今までは献帝の下で、魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権は部下をやっていました。
そこに立場の優劣はあっても、献帝の部下という身分は変わらなかったのです。
だから「献帝のために」と言えば何をしても許されました。
これは漢王朝という社会の仕組みが崩壊していたからこそ許されていたことではありますが、あくまで上司である曹操の命令でも、もっと上に献帝がいるからという言い訳で劉備も孫権も無視したりしていました。
しかしその献帝の位置に、皇帝に曹丕はなってしまったのです。これでは今までのようにはいきません。
劉備が良く言う「漢王朝」はその権威を曹丕に譲ってしまったのです。
皇帝に逆らうのは反逆者、劉備にとってこれは存在意義を失うだけでなく、天下統一すらできません。
皇帝になってしまった曹丕のいる魏に戦いを仕掛けることも罪になるなら、魏から攻撃された時に抵抗しても反逆罪です。
しかも曹丕は帝位を奪ったわけではなく、あくまで譲られた訳ですから「無理やり奪われたんだ!」とも本来なら言うことはできません。
この時期に何故か蜀では「献帝は実は殺された」という真っ赤なデマが流れて、劉備は献帝の仇を討って漢王朝を復興させるべく漢皇帝を名乗ります。
これで苦しいけれど劉備と曹丕は同格になりました。魏に臣従することはできない劉備としては、こうするしかなかったのでしょう。
夷陵の戦いが始まるまで
そして「献帝が殺されて曹丕が帝位を奪った」ことにしてまた1年ほど、劉備は宣戦布告します。
なぜか呉に。
そう、これこそが夷陵の戦いです。献帝が殺されたと噂される中、漢王朝の権威を復興しなければという自国内の雰囲気の中、曹丕打つべしの声が上がる中で、劉備は呉との戦いを決定するのです。
この時臣下の中からは「順番が違う」といくつもの声が上がりますが、劉備は強硬。
劉備はそもそも漢王朝の復興を目標に皇帝になって、皇帝になってその権限を使って最初にやったのが義兄弟の敵討。当選した政治家がいきなり公約をやぶったら皆から反対されてしかるべきですよね。
まぁ魏と戦うなら荊州の奪還は必要なので、夷陵の戦いに踏み切るのはそこまでおかしくはありません。それでもどうして劉備はここまで無茶苦茶な筋の通らないことをしたのか?
本当に劉備は関羽の敵討で夷陵の戦いに踏み切ったのか?
色々な謎と憶測を呼ぶのが、この夷陵の戦いまでの経緯です。
三国志ライター センの独り言
夷陵の戦いまでの経緯なのに、戦い以外の記述が多くなってしまいましたね。
まるで歴史の授業みたいでつまらない、なんて声が上がっちゃうかもしれません。
ですがこの背景こそが夷陵の戦いまでの経緯であり、劉備の謎の行動など、三国志の中でも想像が膨らむポイントでもあります。
どうして劉備はこう動いたのか?
皆さんも夷陵の戦いまでの経緯から、劉備の心を考えて見て下さいね。
関連記事:夷陵の戦いを回避しようとしていた?孔明に比べて目立たない外交人・諸葛瑾の苦労
関連記事:【新事実】夷陵の敗戦は荊州出身者への忖度の結果だった!