樊城の戦いで関羽を破った孫権、この戦いは失策だったのか?

2019年4月30日


 

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呉の孫権は皇帝

 

 

孫権(そんけん)と言えば()の王であり、早世した兄の代わりに数々の武将たちと共に戦ってきた君主です。

 

 

呉魏に臣従したり抜けたりを繰り返す孫権

 

 

最初こそ(しょく)と同盟を結んでいたものの、樊城の戦い(はんじょうのたたかい)でその同盟を打ち切り()と合同で関羽(かんう)を打ち破ったことがきっかけで、蜀は崩壊への道を辿っていきます。

 

 

合肥の戦いで痛い目にあった孫権

 

 

しかしその後の呉の運命を見て「孫権(そんけん)の樊城の戦いは失策だった」と言われますが…今回はこの樊城の戦い(はんじょうのたたかい)と孫権について話していきたいと思います。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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荊州と関羽とそして孫権

劉備と孫権

 

荊州(けいしゅう)は元々、孫呉(そんご)が狙っていた土地です。しかし赤壁の戦い(せきへきのたたかい)のどさくさで、なぜか蜀…この時はまだ蜀はありませんでしたので、劉備(りゅうび)のものになってしまいます。

 

劉備、孫権、魯粛

 

これに関してはもしかしたら劉備と手を組むという考えのあった魯粛(ろしゅく)が与えたものかもしれませんが、呉の将たちが全員そうであった訳ではありません。

 

魯粛、孫権、孔明

 

魯粛亡き後の関羽は手が付けられず、呉と蜀、というよりも呉と関羽の仲が悪化していく中、孫権は関羽と一応和解をしようとしたのか縁談を申し込みます。

 

 

孫権に激怒する関羽

 

 

しかしこれを一蹴され、侮辱された孫権は魏からの申し入れを受け入れ、関羽討伐の樊城の戦いに乗り出します。

 

 

 

蜀と決別、魏と手を組んで関羽を打ち取る

孫権と三国アヒル

 

樊城の戦いに孫権は殆ど出てきません。彼が出てくるのは関羽(かんう)と魏が対決、関羽が撤退してくる前に関羽の後方の城を落として関羽の退路を断ち、退却を阻害して関羽を追い込んで打ち取りました。こう見るとそこまで戦っていないように見えますが、魏から見ると呉が魏に対して攻め上がってこないということが何よりも重要です。

 

呉軍を撃退する曹真

 

 

関羽の勢いに乗って呉まで攻め上がってきたら、魏は多方面作戦をせざるを得なくなります。呉が攻めてこない、というだけでもそちらに兵を割かなくて良くなるので、魏にとってこれ以上のことはありません。

 

朱然によって捕まる関羽

 

そして長年目の上のたん瘤であった関羽を打ち破って、孫呉は悲願であった荊州を一部取り戻しました。しかしこの孫権の樊城の戦いでの蜀への裏切りは失策であったとも言われています。

 

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樊城の戦いの後、夷陵を経て三方面へ

ブチギレる劉備

 

と言われている説明のために、その後の呉について見ていきましょう。樊城の戦いの後、激怒した劉備が孫呉に宣戦布告。

 

キレる劉備になだめる黄権

 

孫権は魏と和睦(わぼく)して対蜀の構えを取り、夷陵の戦い(いりょうのたたかい)が始まります。

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

夷陵の戦いでは呉は苦戦する場面もあったものの、最終的に蜀は大敗北。最早再起不能になった蜀と、孫権はお得意の外交手腕でもって落ちどころを決定。

 

 

孫権 弔い出陣

 

 

体面的には魏とも蜀とも和睦した呉ですが、その後は蜀と戦う心配のなくなった孫権は即座に魏から離反。そして魏と呉が争う三方面作戦を制し、呉を発展させる一方で蜀の諸葛亮と共に魏と戦っていきます。

 

呉の孫権

 

この窮地から脱出する外交手腕は素晴らしいですが、結果として樊城、夷陵で敗北しすぎた蜀は疲弊しており、魏へ対抗できたとは言えません。しかも呉も魏に合肥で何度も敗北するなど、赤壁とは違って呉蜀の同盟は魏へは対抗できなくなっていたのです。

 

 

 

結果として魏への対抗手段を失う

劉備と曹操と孫権

 

 

結論だけ見ると、孫権の樊城の戦いでの判断は魏への対抗手段を失くしただけとも言えます。あの瞬間、関羽を打ち取ること、現状の領土を維持することに関して言えばその瞬間は良い作戦ではあったでしょう。しかしそれはあくまで魏への臣従が絶対条件です。

 

本当は蜀と同名を結びたい孫権

 

後に天下を狙って魏と戦うなら、この時点でその道を選ばなければいけませんでした。このためこの樊城の戦いでの判断は孫権の失策、呉と言う国全体の作戦としても失策と言われています。同盟を組まなければ呉は魏と戦えなかった、だからこそ蜀と呉は手を組んだ。

 

 

関羽に無視される孫権

 

 

そこに関羽や劉備が色々勝手に行動したと言えど、国の未来を考えていくなら耐えなければいけなかった…樊城の戦いでの判断は最終的に蜀の滅亡に繋がっただけでなく、呉の滅亡にも繋がってしまった。

 

海上での戦いの孫権

 

 

このため孫権の評価が下げられてしまっていることがありますが、皆さんは孫権の判断をどう思いますか?孫権という人物の評価はとても難しいと思いますが、これはあくまで樊城の戦いでの判断。

 

孫権

 

できればこれだけで孫権の評価を決めないで欲しいと思います。あくまでこれは彼の行動の一つと見て、彼のやってきた政治手腕や外交手腕などもまとめて能力を判断してみて下さい。

 

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

孫権の樊城の戦いでの判断は、失敗だったでしょうか?それとも、正しかった?現代から見ればこの後の結末まで分かっていますが、当時はそこまで知る由もなかったでしょうから、一概に「絶対に失策であった」とは言えないと思います。

 

孫権に初代丞相として任命される孫卲(そんしょう)

 

また孫権は戦こそ下手だったかもしれませんが政治に関しては、夷陵の戦いの戦後処理を見れば分かるように素晴らしいものです。そういった点も評価しながら、孫権と言う武将、王を見て欲しいですね。

 

呉お正月企画、お酒にまつわる逸話07 孫権

 

 

例え晩年に老害化してしまって、部下を困らせる王様になってしまったとしてもね!

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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