「黄巾の乱ってどんな戦い?」「あ、知ってるなんか三国志の最初の戦いでしょ?」黄巾の乱は三国志の最初の戦いのイメージがあるにも関わらず、意外とこの戦いに注目している人は少ないと思います。
そこで今回はこの黄巾の乱がどんな戦いなのか、できるだけ簡単に分かりやすく説明していこうと思います。
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実はとっても重要な「黄巾の乱」
黄巾の乱が始まったのは184年。この時時代は漢王朝、しかし既に末期と言っても良い状態であることからこの王朝の終わりが近付いていることが分かりますね。
既に中枢で政治は腐敗しており、賄賂のために民衆に重い税をかけて私腹を肥やす官僚たちも増えてきていました。
そんな中で世を変えようとしたのか、もっと別の意図があったのか…それは分かりませんが、張角という人物が起こした反乱が黄巾の乱と言います。黄巾、つまり黄色の頭巾を身に付けた人々が起こしたので黄巾の乱と言うのですね。
さてそんな黄巾の乱を鎮圧するべく多くの兵士が集められ、義勇軍が結成されます。そしてこれこそが三国志の幕開けとも言えるのです。
英傑たちが名前を挙げ、力を付ける
結論から言うと、黄巾の乱は速やかに集められた義勇軍たちにより鎮圧されました。反乱軍の鎮圧をしたことで参加した武将たちは評価され、昇進したり、役職を与えられたりとしていきます。
この武将たちには何進、董卓、王允といったこの後の三国志の登場人物として名高い人物たちだけではなく、三国志を良く知らなくても名前は知っているという人物であり英傑、曹操、劉備三兄弟、孫堅という三国を鼎立した人物たち、関係した人物たちがいるのです。
つまり黄巾の乱は三国志を代表する人物たちが世に名前を広げる戦いであり、自分の基盤を作るための戦いでもあるのです。三国志というと赤壁の戦いや夷陵の戦いといった華々しい戦いに目が行きがちですが、全ての始まりである黄巾の乱はそれらの戦いの前提とも言える戦いなんですよ。
乱が治まっても世は治まらず
さて黄巾の乱はかなり早く鎮圧されました。しかしだからと言って世が治まったという訳ではありません。そもそも黄巾の乱が始まった原因とも言える賄賂の横行や政府腐敗などは結局治まることはなく、民衆の苦しみは続きました。
しかも黄巾の乱の残党である黄巾賊は今だ各地に多く、略奪などを繰り返していたので世はどんどん乱れていったのです。この黄巾賊の残党は暫く鎮圧され続け、そしてその度に幾人もの武将たちが名前を上げていくことになります。
例えば曹操はこの黄巾賊を鎮圧するだけでなく精鋭兵として迎え入れていますし、曹操の親衛隊である武将・許チョもこの黄巾賊と戦っていたという逸話が残っています。
三国志演義の方では許チョと曹操の出会いが正にこの黄巾賊の残党狩りの中で描かれ、個人的には短いけれどかなりの名シーンなのでぜひ知らない人は見てみて欲しいですね。
曹操の人材ハンターっぷりが窺い知れますよ。
終わりであり、全ての始まりであり、乱れの始まりでもある戦い
そして黄巾の乱が静まって次に始まるのは騒乱の時代。様々な武将たち、有力者たちの争いの時代が幕を開けます。それは同時に後漢の時代の終焉でもあります。
黄巾の乱では様々な武将たちが名を上げ、力を付けました。しかし彼らは悪く言えば「忠誠心」で戦っている訳ではなかったのです。
王朝を守るために戦うのではなく、あくまで自分の力を上げるための手柄を手に入れるための戦い、それが黄巾の乱であったと筆者は思います。建前として国のため、漢王朝のため、と言うだけであり、その実は自分が覇権を握って天下を手に入れるための通過点になってしまったのが黄巾の乱です。
この後に三国鼎立というそれぞれが王を名乗って争うことになることを考えると、やはり色々な意味でこの黄巾の乱というのはターニングポイントと言える戦いでしょう。黄巾の乱の終わりは、乱が終わったのではありません。
皮肉にももっと大きな乱が始まる、開始の合図だったのです。
三国志ライター センの独り言
黄巾の乱について、そして黄巾の乱がどんな意味を持った戦いであったのかを簡単に説明しました。少しでも黄巾の乱という戦いがどんな意味を持っていたのか、どれほど重要であったかは分かって頂けたでしょうか?
三国志は華やかな戦いに目が行きがちですが、この黄巾の乱の時点での有名武将たちがどんな状態なのかを追っていくのも楽しいので、ぜひもう一度最初から三国志を見る時はこの黄巾の乱を、じっくりと追ってみて下さいね。
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