なんとも男らしい信頼関係というか、劉備・関羽・張飛とはまた違う「義兄弟」に見える関係というか。
何かに似ていると思っていたら、ふと気づきました、昭和なヤクザ映画の『兄貴ィ!』『舎弟よ!』のノリでは?!
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典韋があんなに強いのは、勝新太郎や高倉健が無敵状態になるのと同じ理屈?
最近はヤクザ映画というものもあまり作られなくなったようですが、昭和の「義理と任侠」をテーマにした映画、見ると面白いものです。
「兄貴分と弟分」の、男どうしの絆というテーマが好んで扱われますよね。
そういう話では、頭はキレるが敵も多い兄貴分のほうが罠にはまって絶体絶命の窮地に陥り、頭が弱いが喧嘩が強い弟のほうが最後に助けに来る。
「兄貴ィ、今たすけにいくかんな!」となった弟分はもはや無敵状態になり、なみいるザコをバッタバッタとなぎ倒していくが、力尽きて、兄貴の看取る中で死ぬ。
弟「いいんだよオラのことは、兄貴が無事ならさ・・・ガクッ」
兄貴「ばっきゃろー! 無茶しやがって! おめえのこと、一生、忘れねえかんなー!」
と、いうような。
なるほど、こう整理してみると、曹操と典韋の関係ってまさにこういう関係だったのでは!ひょっとしたら、そもそも初期の曹操軍はこのような「ヤクザまがいの仁義」で互いが結びついていた、熱くてやんちゃな軍団だったのかもしれません。
言われてみれば、夏侯惇も夏侯淵も昭和ヤクザ映画の脇役っぽいし。あくまでイメージですが。
曹操のピンチを見てパワー百倍!典韋最後の戦いの強さを思い出してみよう!
典韋の最期を思い出してみましょう。
『三国志演義』の展開を典拠にすると、陰謀を仕掛けてきたのは張繍。一度は曹操に降伏をしたはずの張繍ですが、それを裏切る決断をします。
油断している曹操を襲って殺そう、という計画を立てるのですが、曹操の傍にはいつも典韋が「兄貴ィ、曹操の兄貴よォ」と付き従っているので、なかなかチャンスがない。特に典韋は重さ八十斤(20キログラムくらい)の鉄の戟を二刀流に持って襲ってくるという怪力野郎だったため、うかつに手を出すと大変なことになる。
そこで一計を案じた張繍は、典韋にたらふく酒を飲ませ、本人が寝ている間に戟をこっそり盗みます。これで典韋も怖くない、となった張繍軍の兵士たちは、いっきに曹操の寝込みに襲いかかります。
曹操の宿舎の入り口を守っていた典韋は眠りから覚め、「兄貴があぶねえ!」。
手元を見渡すと、「あ、戟がねえ!」。
四方から迫る敵兵たち、「うおー、張繍めえ、ゆるせねえ!」。
近くにいた部下の持っていた刀を手に取ると(※刀を勝手にとられた典韋の部下のその後の消息は不明)、かかってくる敵兵をばったばったと切り倒し。この戦いでの張繍側の死傷者数はもはや不明。
最後には刀が刃こぼれして切れなくなり、武器がなくなってしまったのですが、そこから死を迎える直前に、『演義』の記述では「素手で八~九人を投げ殺した」とあります。素手で八~九人を瞬殺できるという点でもはや異常ですね。
得意の戟を奪われていなかったら、いったいどれだけ強かったんだ?!
同日には親族も多数死んでいるのに、典韋のことだけを嘆いた曹操
典韋の鬼気迫る活躍のおかげで、曹操は無事に窮地を脱出することに成功します。ただしこの夜襲による被害は甚大で、曹操は典韋の他に、息子の曹昂と甥の曹安民を討ち取られています。
最愛の部下と同時に、家族までをも殺され、さしもの曹操も号泣。と思いきや、その時の曹操のセリフは、「わしは、長男やおいを死なせたのは、さまで悲しいとも思わぬ。ただ、典韋を討たせたことがなげきの種じゃ」。
草葉の陰で特に曹昂が激怒していたことでしょう。
「オレの死因も、おやじ(曹操)が逃げる時間を稼ぐ中での戦死だったんですけど!」
その後の曹操軍を見ても、どうも曹操は舎弟分を持ちたい性分らしい
こうして生き残った曹操は、やがては三国のうちのひとつ魏を打ち立てることになり、ことあるごとに「しかしわしが今日の地位にいられるのもあのとき典韋が助けてくれたおかげじゃなあ」としつこく言うので若手からゲンナリされる老人になっていきます。
それだけ典韋との関係は特別だったということでしょう。
三国志ライター YASHIROの独り言
そういえばけっきょく曹操は、その後も許褚という、これまた「ヤクザの舎弟」っぽいキャラを傍らにつねに従えていましたね。
もともとの発想として、舎弟分を連れて歩きたがる性分の人だったのかもしれません。あるいは、繰り返しになりますが、曹操軍というのが昭和映画のヤクザに近いような、あらっぽくも仁義に厚い義侠軍団の雰囲気だったということなのかもしれません。
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