于禁(うきん)は魏(220年~265年)の将軍です。活躍時期は後漢(25年~220年)が多いので、後漢の将軍が正しいと思います。この于禁の最期は、あまり良くない結末で知られています。
今回は正史『三国志』における于禁の死因について考察します。
于禁の死因1 関羽討伐失敗
建安24年(219年)に荊州に駐屯していた関羽は、魏の曹仁に攻撃を仕掛けました。曹仁の城はあっという間に包囲されてしまいます。
この時に援軍として派遣されたのが于禁と龐徳です。しかし、出陣時期が悪かったのです。
なんと台風が来て于禁と龐徳の陣は流されてしまいます。「なんて日だ!!」と2人はバイきんぐのネタを言って流されました。
まあ、冗談はこの辺にしておきますが結局、この戦いで捕縛された龐徳は自分から死を選びます。
一方、于禁は死を選ばずに荊州の獄に繋がれました。于禁は今まで成功を重ねて出世を果たした人物でした。今回の失敗は台風のせいとはいえ、彼の人生に打撃を与えることになります。
この話を聞いて驚いたのは曹操でした。「私と于禁は30年以上も付き合いがあって分かっているはずだった。しかし于禁は龐徳にも及ばないとは思わなかった」と曹操は嘆きました。
間もなく、関羽は曹操と秘密裏に同盟を結んだ孫権から攻撃されて敗北しました。その時に于禁は救出されました。しかし、魏に送られることはなく呉(222年~280年)に送られました。
于禁の死因2 虞翻の執拗な馬騰
こうして呉に送られた于禁でした。もちろん、于禁は捕虜です。
ところが、孫権は以前から于禁の名前を知っていたので、于禁を捕虜として扱いませんでした。賓客として特別待遇してあげました。ところが、これに異議を唱えたのが虞翻でした。
虞翻は孫権配下の変わり者で有名です。孫権に平気な顔で反抗して最後はベトナム方面まで流刑にされた人です。さて、虞翻は孫権が于禁を大切にあつかう意味が理解出来ません。ある日、孫権が于禁と一緒に騎馬で外出した時に途中で虞翻に出会います。
虞翻は「お前は捕虜の身でありながら、孫権様と一緒にいるとはどういうことだ!」と持っていたムチで于禁を叩こうとします。孫権が止めたので、この暴力事件は未遂に終わりました。またある時は、孫権が于禁を宴会に招待しました。
その時、于禁は故郷のことを思い出して涙を流しました。
それを見た虞翻は「泣きまねして、釈放してもらおうとしている奴がいるぞ!」と罵声を浴びせました。
虞翻って・・・・・・
学者のレベルは孔融と同格らしいですけど・・・・・・于禁を慰めようとした孫権は、すごい不愉快だったそうです。後に于禁を魏に返還することになった時も虞翻は孫権にこんな事を言いました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)
「于禁は捕虜になって死にきれなかった男ですよ。そんな男を送り返しても意味無いですよ。むしろ、于禁を斬ってから二心ある連中の見せしめにしましょう」
暴論ですね。于禁は反乱を起こしたわけでもないのに、なぜ二心ある連中の見せしめなのか意味不明です。
もちろん、こんな暴論に孫権は耳を貸しません。于禁を魏に返還することに決めます。帰る時に虞翻は于禁に対して「この俺の事を忘れるな」と言っておきました。なお、于禁は魏に帰っても虞翻のことを忘れませんでした。
むしろ、「立派な人物だった」と称賛していたようです。于禁も器が大きいです。
于禁の死因3 曹丕による陰湿イジメ
魏に帰ってきた于禁は普通に将軍の地位に戻されました。
すでに曹操は亡くなり、後漢は滅亡して魏が建国されていました。
新しい皇帝は曹操の息子の曹丕です。ある日のこと、于禁は曹丕から曹操の墓参りを言われました。言われた通りに行ってみると、そこには驚きの光景がありました。
曹操の墓には于禁が投降するシーンが描かれていたのです。
曹丕の得意技「陰湿イジメ」です。張繍も自殺に追い込むほどの必殺技です。絵を見た于禁は恥ずかしさから、病気になり間もなく亡くなりました。北宋(960年~1127年)の政治家であり歴史家でもある司馬光は、曹丕の行いを「君主の行うことではない」と評価しています。
三国志ライター 晃の独り言
以上が于禁の死因についての記事でした。筆者は最後に書いた于禁の直接の死因である曹操の墓の絵については、疑問があります。近年発掘された曹操の墓には、そのような絵があったという報告は今のところ無いのです。(筆者が調べた限り)
もちろん、1800年以上昔の話なので戦乱で無くなったという考えもあります。もしかしたら、後世の史家が于禁や曹丕を貶めるために創作した話かもしれないのです。今後の研究に期待したいです。
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