韓遂は霊帝の時代から西方で反乱を起こし、数十年間独立して勢力を保っていました。しかし韓遂は馬超と一緒に曹操へ反旗を翻したことがきっかけで滅亡することになります。
韓遂は滅亡するときに多くの腹心達から裏切られてしまいますが、成公英だけが韓遂を裏切ることなく、彼が死ぬまで付き従っていました。成公英は韓遂が亡くなるまで従っていた武将ですが、どのような人だったのでしょうか。
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韓遂が反乱を起こした際仲間になる成公英
成公英は霊帝の時代のちょっと前に中国の西域・金城で生まれます。後漢王朝は霊帝時代に大きく乱れ、役人たちは官職を銭で買うために民衆から銭を巻き上げていました。
また皇帝の側近である宦官たちが幅を利かせ、好き放題政治を動かし、朝廷のやり方に不満を持っている人が大勢いました。西方の豪族・韓遂はそんな乱れた朝廷に嫌気がさして、黄巾の乱が鎮圧された後、西方で仲間を集めて後漢王朝に反旗を翻します。
成公英は中国西方の有名人・韓遂が反乱を起こしたことを知ると彼の元へ赴き、配下に加えてくれるように説得。韓遂は成公英の説得を聞き入れ、彼を配下に加え後漢王朝に反旗を翻します。その後成公英は韓遂と一緒に中央政府に従うことなく、韓遂の腹心として活躍していきます。
馬超と一緒に曹操と対決する成公英
韓遂は盟友馬騰の息子・馬超と一緒に中央政府を仕切っていた曹操と対決することになります。韓遂は自分を慕っている豪族を集め、馬超軍と合流。
韓遂は馬超と共に連合軍を形成し、曹操軍と戦いますが、決着をつけることができませんでした。そのため韓遂と馬超は曹操軍と長い間対陣することになりますが、この対陣中に二人の仲が悪くなってしまいます。
その原因は賈詡の計略「離間の計」によって、韓遂と馬超の二人が互いを疑うように仕向けた為です。
そのため二人はお互いを疑い疑心暗鬼になってしまった為、協力することができず、曹操軍の攻撃を受けて連合軍はバラバラになってしまい曹操軍に敗北。
韓遂は成公英を連れて曹操軍の追撃から逃亡することになります。
親戚に裏切られる
韓遂は曹操軍に敗北すると夏侯淵率いる軍勢の猛追撃を受けることになりますが、何とか追撃を振り切って湟中へ逃亡。韓遂は腹心・成公英と親戚・閻行らと今後どうするかを語り合います。成公英と閻行らはいい案が浮かばず解散。
その後閻行は会議が終わった後、夜中に軍勢を集めて韓遂へ奇襲攻撃を行います。成公英は韓遂が閻行から攻撃をされた事を知り、軍勢をまとめて閻行の奇襲攻撃かろうじて撃退することに成功。しかし韓遂は親戚関係にあった閻行が、裏切った事にショックを受けてしまいます。
成公英の策
成公英は閻行の反乱後、韓遂に呼ばれると「我らが苦難に会っている時、まさか親戚から裏切る者が出るとは思いもよらなかったよ」と肩を落としながら語ります。さらに韓遂は「このままここに居れば夏侯淵の攻撃を受けかねない。ここは蜀へ逃げるしかないな」と成公英に相談。
すると成公英は「夏侯淵の軍勢は兵糧も少なく、我らを発見して攻撃を仕掛けることもできませんでした。ここは我らの知り合いが多い羌族の元へ逃げて、力を蓄えるのがいいと思います。」とアドバイス。
韓遂は成公英のアドバイスを採用し、羌族の元へ逃げこみ、力を蓄えることにします。しかし韓遂は羌族の元で以前の力を取り戻す前に亡くなってしまうのです。
再び裏切られ殺害される韓遂
韓遂は羌族の元へ逃げこむことに成功しますが、再び裏切られてしまい、殺害されてしまいます。成公英はたまたま韓遂の近くにいなかったため、後に韓遂が部下に裏切られて殺害された事を知り、いっぱい泣いて悲しんだそうです。成公英は韓遂が殺害されてしまった為、曹操の元へ出頭し降伏。
曹操は成公英が韓遂に忠誠を尽くしていた事を知っていたので、彼を軍師に取り立てて侯の位を授与し、厚遇したそうです。三国志には君主に忠義を尽くして仕えた人物がたくさんいますが、成公英も忠義をもって君主を支え続けた忠臣の一人に数えることができる人でしょう。
三国志ライター黒田レンの独り言
成公英は曹操に降伏した後、どのような働きをしたのかちょこっと紹介して、終わりにしたいと思います。
成公英は曹操に降伏した後、涼州刺史・張既の部下となって、西方で反乱を起こした異民族を討伐する作戦に参加し、活躍していたそうです。成公英は韓遂に長いこと仕えていた事もあり、西方の異民族の事に詳しかったため、上記の任務を与えられますが、適材適所な人材活用術だったと言えるのではないでしょうか。
■参考文献 正史三国志魏書など
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