後漢の皇帝とつながりがあった何進。
そして、地方武将の董卓。ここから中国は戦乱の三国時代へと突入します。悪名高い董卓ですが、実は後漢時代の朝廷よりもずっと頼りになる存在だったのです。三国志演義を元に董卓の活躍と何進の優柔不断さを見ていきましょう。
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朝廷では宦官勢力が跋扈
董卓が地方で勢力を拡大している頃、宮廷では宦官勢力がのさばり後漢の皇帝でさえコントロールできないほどでした。そこで時の大将軍・何進や司隷校尉・袁紹は宦官排除へと乗り出します。しかし、難題が持ち上がったのです。
内輪だと思っていた何太后が宦官排除に反対。理由は宦官から賄賂を受け取っていたから…。宦官勢力が弱まれば、今の贅沢な暮らしが一変すると考えたのでしょう。
董卓軍を都のそばに
困り果てた何進は力のある武将を呼び寄せ、武力で宦官勢力を排除しようと企てます。そこで白羽の矢が立ったのが甘粛省生まれの董卓だったのです。董卓は兵を率いて都へと進軍を開始。着々とクーデターの準備が整います。
皇帝・劉弁を救う
西暦189年8月28日。董卓は洛陽のそばまで来ると上空に煙が立ち上っているのを目にして、事の重大さに気付きます。部下に命令を下し、急ぎ進軍。明け方に「顕陽苑」に到着し、皇帝・劉弁(献帝)が誘拐されたと知らされます。どうやら、中常侍の張譲たちが北芒山へ連れていったとのことです。
さっそく董卓軍は北芒山へ移動を開始。北芒山の麓へと到着すると劉弁は恐ろしさのあまり董卓軍を見るやいなや泣きわめいてしまいます。董卓はやっとの思いで皇帝・劉弁を迎え、都へと戻るのでした。ほどなく長安(現在の西安)に着いた董卓は、右往左往する部隊を見て一言。
「俺は寝る間も惜しんで300里も駆けてきたのに何を怖がっているんだ。俺が今さらお前の頭をかち割るとでも考えているのか!」
さらに大臣たちに向かって「国家の大臣がそろっていながら王室はボロボロ、国は崩壊寸前で陛下は誘拐される。そんなときに兵を引けと言うのか!」
やがて、董卓は部隊を率いて入城。まず、劉弁にあいさつし閔貢の腕の中にいた陳留王・劉協に手を伸ばしますが、劉協は嫌がります。やむなく董卓はそのまま閔貢と馬に乗って一緒に入城しました。
そこで董卓は今回のクーデターについて二人に尋ねたところ劉弁は一言も話さなかったのに対し、劉協は口を開き、丁寧に語ります。
董卓は知っていたのです。劉協は董太后に育てられ、同じ「董」の姓を持つ同族ということを。内心、喜んだ董卓は劉協が皇帝になってくれたらと期待を寄せます。
何進の最期は?
宦官を退治しようと董卓を呼び寄せた何進。実は袁紹と意見が対立します。捕らえた小黄門(宦官勢力)を処刑するに当たって、彼らに命乞いをされ、二の足を踏んでしまうのです。
一方の袁紹は今こそ決断のときとばかりに処刑を勧めます。おろおろしているうちに中黄門(宦官勢力)が何進を退治、尚書に告げます。
「何進は謀反を起こし、処刑されました」
袁紹をこの機に乗じて都へと進軍を開始。宦官勢力をみな成敗し、董卓が到着する前に都入りを果たします。ほどなく皇帝・劉弁は退位させられ、劉協が皇帝に。何皇太后は殺害され、その母親の「舞陽君」も亡き者にされます。
こうして「何一族」は滅亡し、朝廷から外戚勢力は一掃。三国時代へと突入するのです。
三国志ライター 上海くじらの独り言
俯瞰してみると後漢は外戚勢力と宦官の争いによって衰退し、地方豪族の董卓や大臣だった袁紹、曹操らが台頭します。朝廷が形だけの存在となり、智謀知略と力のあるものたちが世を支配していくのです。
三国時代の特徴は力だけでは生き抜けなかった点にあります。時の権力者との均衡を計りつつ、自らの勢力を拡大する必要があったのです。結局は後漢の朝廷と宦官はつぶし合い、董卓が牛耳を執った形となります。
しかし、その董卓も司徒・王允の策によって唆された呂布に命を取られてしまうのです。
時に西暦192年5月22日のことでした。
参考書籍:「三国演義(中国語版)」羅貫中/長江文芸出版社
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