魏延は蜀(221年~263年)の将軍です。劉備の益州攻めの時から従ってきた叩き上げの軍人でした。劉備からの信任は厚かったのですが、諸葛亮とは軍事面での意見が合いません。
さて、今回は魏延が魏(220年~265年)の北伐時に諸葛亮に提案した「長安攻め」とは何か、さらに諸葛亮の北伐のプランについて検証ます。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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魏延の長安攻めとは?
まず魏延の長安攻めとは何か調べてみましょう。正史『三国志』によると魏延は出陣(北伐)のたびに諸葛亮に「私に1万の兵士をください。諸葛亮殿は別の道を通って私と一緒に潼関で会いましょう」と提案しました。
一方、『魏略』という書物では「精鋭5千と兵糧5千石をください・・・・・・子午道を通って10日と経たないうちに長安を落としてみせます」と息巻いています。一般的に知られているのは、『魏略』の内容です。小説『三国志演義』も後者を取り入れていました。後者の方が読者の受けが良さそうですからね・・・・・・・
しかし、諸葛亮はあまりにも危ない作戦ということから魏延の作戦は却下しました。魏延はこのため不平不満を抱くようになります。
魏延の作戦は成功するの?
それじゃあ、魏延の作戦って実際に成功するのでしょうか?
これは困難であることが証明されています。魏延の作戦に疑いを持った任遠という中国の学者が調査を行いました。
その結果、(1)魏延が通る予定としていた子午道は桟道が危険であり、敵に待ち伏せされる可能性があること。(2)たとえ、子午道を通ったとしても5千~1万程度の兵で長安が落とせるはずがないこと。(3)魏延が漢中太守だった当時、長安より北の雍州の長官が郭淮があったことから魏延の戦略を熟知している。
上記の3点から魏延の作戦は不可能であると結論づけられています。
諸葛亮のウロウロ北伐は意味があった?
それじゃあ、反対に諸葛亮のプランってどんなものでしょうか?
諸葛亮は魏延のように定まった個所を攻撃目標とせずに、西の街亭・天水、北の陳倉や五丈原など様々な場所をウロウロしています。これにはどんな意味があるのでしょうか。
実は諸葛亮は異民族と共同で魏に当たることを画策していたのです。涼州は曹操が建安16年(211年)に馬超を討伐して、一見したら落ち着いたのかと思いますがそうでもありません。
その後も小規模な反乱が相次いでいます。魏の異民族支配に弱いことを目をつけた諸葛亮は、彼らと貿易交渉を行います。魏が出来なかった農業・治水・通貨・塩鉄などを行って彼らを安定させる代わりに北伐時に魏の後方をかく乱してもらうことを持ち掛けました。
もちろん異民族としては「分かりました」とGOサインを出します。魏延のプランに比べると諸葛亮のプランは国家戦略に立ったものでした。
三国志ライター 晃の独り言 中国で魏延は大人気!!
以上が魏延の長安攻めと諸葛亮のプランを検証しました。魏延って性格は悪いのですけど中国では大人気なんです。中国の学者の多くは魏延を支持しており、魏延が反乱に追い込まれたのは、「諸葛亮のせいである!」と断定します。
また、魏延の長安奇襲作戦に関してもナイスな作戦と見ており諸葛亮は冒険な出来ないダメな人間であるとしています。長安奇襲作戦を批判的に扱った学者は前述した任遠という人物ぐらいしか筆者は知りません。
人物像も正史『三国志』著者の陳寿と小説『三国志演義』著者の羅貫中が歪曲したものであり、真実ではないとされています。中国で執筆される論文は学者の好みや政治情勢に書かれるので、気を付けて読まないといけないのです。
※参考文献
・狩野直禎『諸葛孔明』(初出1966年 後にPHP文庫 2003年)
・満田剛「諸葛亮没後の「集団指導体制」と蔣琬政権」(『創価大学人文論集』17 2005年)
・渡邉義浩『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』(講談社選書メチエ 2012年)
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