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魯粛の性格とは?赤壁の戦いを仕掛けた呉の外務大臣

2019年8月25日


 

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魯粛

 

三国時代の偉人・魯粛(ろしゅく)。早くから周瑜(しゅうゆ)と親交を深め、周瑜を介して孫権(そんけん)と出会います。

 

魯粛と周瑜が詐欺を決行

 

やがて、魯粛の才能を見抜いた孫権は赤壁の戦いの戦略担当に任命。東奔西走し、劉備(りゅうび)と孫権を結んだ魯粛、一体どんな性格をしていたのでしょうか。史実を参考にしながら、魯粛の非凡な才能を見ていきましょう。

 

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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子どもの頃の魯粛

魯粛

 

早くに父を亡くした魯粛は祖母の手によって育てられます。大きな体で性格は豪快そのもの、読書を愛し、馬上から弓を射るのが得意でした。文武両道の教科書ともいえる存在だったのです。

 

魯粛は朝廷の腐敗や社会情勢を見て、故郷では少年たちを集め鍛錬させていました。乱世となることを予期していたのでしょう。

 

 

 

周瑜との出会い

周瑜

 

当時、居巣長を務めていたのは周瑜でした。魯粛の名を聞いて多くの市民が施しを受けていたのです。魯粛の実家には倉があり、現代の単位に換算して、およそ30万リットルの食糧が貯蔵されていました。

 

魯粛と周瑜

 

その倉を二つ持っていましたから、魯粛は合計60万リットルの食料を蓄えていたことになります。一家でショッピングモールを一つ持っているような豪族だったのです。ある日、周瑜が魯粛に食糧の提供をお願いすると倉をまるまる一つくれる椀飯振舞。

 

この一件で周瑜は魯粛を只者ではないと感じ、自ら進んで交流を深めるようになります。それは都知事と東京オリンピック組織委員会のように切っても切れない関係となったのです。こうした出来事からも、ただの戦略家とは思えないような大胆な性格が見てとれます。

 

 

外交手腕を発揮した魯粛

呉の孫権

 

西暦208年。

孫権は周瑜に「江夏」へと攻めるよう命令を下します。

 

孫権に攻められ戦死する黄祖

 

太守の黄祖(こうそ)を斬って、荊州を取る準備を進めよ、というプランでした。当時、曹操は魏の南側まで手が回らなかったので、周瑜は江夏をあっさり獲得。7月には南に向けて出発し、南陽に兵を集結させます。

 

劉表死す

 

ところが、同じ年の8月に劉表(りゅうひょう)が急死。魯粛は皇帝になる地盤固めができるからと自分を荊州へ派遣させてくれと孫権に懇願します。理由は劉表の子どもの二人は仲たがいしており、劉備は戸惑っているということ。

 

さらにそこに曹操がいては矛盾が生じる(大義名分がない)として、孫権を説得しました。魯粛が夏口に到着すると曹操が荊州に向けて兵を進めているというニュースを耳にします。すると魯粛は昼夜兼行して、南郡へと到着。

 

他方で、劉表の子である「劉琮」が曹操に降ったと聞いた「劉備」は川を渡って南へと逃げる準備を開始します。ちょうど魯粛が劉備との連絡が絶たれていたところに偶然、劉備と邂逅。劉備に孫権の命令でやってきたことを説明します。

 

そこで劉備にどこへ行くつもりなのかと尋ねると「太守の呉巨の元へ行く」と告げます。しかし、魯粛は「呉巨のところへ行ってもどうにもならない」と言って、呉の孫権での活躍を伝え、呉と同盟を結ぶよう持ち掛けます。

 

劉備、孫権、魯粛

 

魯粛の子細な説明に同意した劉備は、孫権と結んで曹操に対抗することを決意。同行していた諸葛亮には「私はあなたの兄と友達なんです」と告げて、仲良くなりました。劉備はその足で夏口へと向かい、孫権の元へは諸葛亮を派遣。

 

魯粛が諸葛亮に同行しました。そして、ついに柴桑(現在の江西省九江の南西付近)で孫権と会見することになるのです。この時、孫権は曹操が長江を渡って呉の地へと攻め入る準備をしていることを嗅ぎつけていました。

 

多くの武将が孫権に曹操へと降るよう勧める中、魯粛は一言も発しませんでした。そこで孫権はトイレに行くと言って、席を立ち魯粛の腕を引いて軒下へと連れていきました。

 

「どう思う?」とは孫権。すると魯粛はこう答えます。「どの武将も間違った方向へと閣下を誘導しています。大事なのは同盟を結ぶこと。もちろん私の立場なら、大いに降参に賛成するでしょう。

 

曹操は故郷に帰らせてくれ、立派な馬車に乗って知識人たちと交流する機会も与えてくれるはずです。しかし、もし閣下の立場だったら、どうでしょうか。安泰とは言えません。

 

策をもって対抗すべきです。諸侯の意見に耳を貸してはいけないのです」これを聞いた孫権はこう言ったそうです。

 

「奴らの主張には確かに失望した。策謀をもって曹操に対抗するという意見が一致したのは魯粛、お前だけだ。天が味方してお前を授けてくれたのだろう」やがて、赤壁の戦いで周瑜が主導し、魯粛は「賛軍校尉」として周瑜をサポート。

 

魏曹操と魏軍と呉軍

 

ほどなく孫権・劉備連合軍は曹操を北へと追い返すことに成功するのです。主君の立場で物事を考えるあたり、只者ではありません。

 

 

三国志ライター上海くじらの独り言

三国志ライター 上海くじら

 

魯粛は奇抜な発想を持っていながらも用意周到な性格が読み取れます。また、曹操が呉へと侵攻してきたときに魯粛が劉備と接触しなかったら、赤壁の戦いは起きなかったでしょう。

 

そもそも多くの武将は、曹操に降ることを勧めていたのですから。しかし、魯粛のきめ細やかなサポートのおかげで劉備と結ぶことができた孫権は赤壁で曹操を打ち破ります。

 

まさに魯粛の外交手腕が発揮された戦だったのです。こうして天下は三国鼎立の時代へと入っていきます。

 

参考資料:

「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社

鲁肃 (孙吴战略家、外交家)

 

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呉の武将

 

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上海くじら

上海くじら

三国志との出会いは高校生の頃に読んだマンガの三国志。 上海留学中に『三国志演義』の原文を読む。 また、偶然出会った中国人と曹操について語り合ったことも……。 もちろんゲームの三国無双も大好きです。 好きな歴史人物: 曹操、クリストファー・コロンブス 何か一言: 覇道を以って中原を制す

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