魯粛の死因とは?曹操の天下を阻害し早逝した呉の好漢

2023年6月7日


 

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魯粛

 

さて今回ご紹介しますのは魯粛ろしゅくです。三国志演義さんごくしえんぎと正史三国志さんごくしではかなり印象が違ってくる人ですね。何なら正史の記述を見ても「こんな人ほんとにいたの?」と思ってしまう人です……色んな意味で。

 

 

魯粛

 

ここでは魯粛ろしゅくの死因を見ていくと共に、そんな魯粛ろしゅくについても色々とお話ししたいと思います。知れば納得、魯粛ろしゅく周瑜しゅうゆの後を引き継げた訳。お話していきましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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魯粛は魯の家に生まれたとんでもない子供だった

魯粛

 

さて魯粛ろしゅく、字は子敬。徐州じょしゅうの南方に位置する県にある、家に生まれた男の子です。この家は地元でも評判のお金持ちでしたが、魯粛ろしゅくが生まれてすぐ父親が亡くなり、魯粛ろしゅく自身は祖母に育てられていたと言います。

 

そんな魯粛ろしゅくは若い頃から評判でした。「家の子が田畑を売ってまで金を貸したり、若者たちを引き連れて徒党を組んで兵馬の訓練をしている……家には気狂いが生まれたようだ」と……割と凄い方向に評判だったんですね、魯粛ろしゅく

 

 

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周瑜との邂逅、後々まで深く繋がる縁

魯粛と周瑜

 

さてそんな魯粛ろしゅくの噂を聞きつけてやってきたのが当時、居巣県長にあった周瑜しゅうゆです。この時に周瑜しゅうゆは資金提供をしてくれないかと要求。さあどう出てくるかと思う周瑜しゅうゆに、魯粛ろしゅくは所持していた二つの倉の内の一つをそっくり渡してしまいました。

 

魯粛、周瑜、袁術

 

この時から周瑜しゅうゆ魯粛ろしゅくの非凡さを認めて親交を深めるようになり、後に袁術えんじゅつに仕えた魯粛ろしゅく周瑜しゅうゆを頼って孫策そんさくに尊重された……と言いますが、孫策そんさく時代に特に何らかの活躍はなしです。どちらかというと孫堅そんけんの時代になってからが魯粛ろしゅくの輝きターンですね。

 

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周瑜「逃がさん……お前だけは……」

魯粛

 

さて時は流れます。魯粛ろしゅくのお祖母さんが亡くなりました。さて今後をどうするかと思っていた魯粛ろしゅくに、お友達から「鄭宝ていほうのとこいくといいよ!」とお便りが来ます。これに納得した魯粛ろしゅく、母親を連れて行こうとしますが、なんと既に母親の身柄は抑えられていました。

 

魯粛と周瑜

 

折りしも孫策そんさくが亡くなり孫権そんけんが後を継いだ時、周瑜は魯粛を逃がしたくなかったのです。その後、周瑜の熱心な説得により魯粛は孫権に仕えることとなったのでした。周瑜の賢明さと懸命さが光る場面ですね。

 

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魯粛は言わずと知れた周瑜の後継者!

魯粛 天下二分の計

 

周瑜しゅうゆによって推挙された魯粛ろしゅくは、その後はその才覚を発揮していくことになります。特に劉備りゅうびと結んで曹操そうそうに当たるという方針は魯粛ろしゅくのもので、永くこの方針によっては進んでいくこととなりました。

 

魯粛、周瑜、劉備

 

そんな魯粛ろしゅくは三国志演義だと何だかんだ上官の周瑜しゅうゆにいびられたり、気弱さを心配されたりする人物ですが、実は周瑜しゅうゆの後継者となりの都督となったのが魯粛ろしゅくです。

 

朝まで三国志2017追加22 周瑜

 

早くに亡くなった周瑜しゅうゆは、遺言にて「後継は何卒魯粛ろしゅくに」と孫権そんけんに言い含めていました。魯粛ろしゅくの非凡さが光る瞬間、そして周瑜しゅうゆとの交流が結んだ縁と言えるでしょう。

 

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魯粛の役職は?実は魯粛の役職って…

ポイント解説をするセン様

 

ここでちょっと魯粛ろしゅくの役職についてのお話を。周瑜しゅうゆに推挙された魯粛ろしゅくは、孫権そんけんの宴に招かれます。孫権そんけんの宴に招かれるとかいうパワハラ&アルハラフラグですが、珍しくこの時は酒を控えていたのか孫権は穏やかに魯粛に今後のことを尋ねました。

 

魯粛

 

「まずは曹操が北に手こずっている間にここらを制して、そこから天下を狙っていきましょう!」

 

この当時、漢王室はまだあります、まだあるのです。さしもの孫権もこれには苦笑い、まだ地元だけでも大変だし頑張って漢王室を助けようね……と返し、これを聞いたのか張昭おじいちゃんから「あんな危ない奴と付き合っちゃいけません!」と激怒されたりするのでした。

 

そしてここから実は魯粛、母親ともども前と変わらない暮らしができたという孫権の厚遇っぷりを見せるも、実は暫く役職がどこにも出てきません。もしかしたら孫権もこいつヤバい……と思ったのかもしれませんね。

 

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豪胆な魯粛は46歳で死去、死因は不明

魯粛と袁術

 

その後もかん王室があるのに何か度々孫権そんけんに帝位を望んじゃう魯粛ろしゅくですが、都督になると劉備りゅうび孫権そんけんの仲立ちのためにその身を砕きます。
しかし魯粛ろしゅくは決してただ劉備りゅうびたちと仲良くしていた、という訳ではありません。

 

 

孫権に激怒する関羽

 

有名なのが関羽かんうとの「単刀赴会」ですね。この関羽かんうとの対談で魯粛ろしゅくは一歩も怯むことなく関羽かんう相手に対峙、最終的に長沙ちょうさ桂陽けいようの領有権を孫権そんけん側に認めさせました。関羽かんう相手に「ガチ」で引かなかった、その豪胆さは賞賛すべきものであるでしょう。

 

 

魯粛、孫権、孔明

 

 

ですがこの二年後、魯粛ろしゅくは46歳で死去。の都督あるあるな早逝です。死因について正史では触れられてはいませんが、劉備りゅうびとの外交を一手に引き受けていた身であることを踏まえると、豪胆な性格ではあってもやはりそれなりに負担も大きく、そのための早逝ではないかと思われます。

 

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魯粛 ~恐らく最も曹操の天下を阻害した男~

死期を悟る曹操

 

さて魯粛ろしゅくの死後、しょくももちろん色々とあるのですが。注目するべきはこの三年後、曹操そうそうが亡くなることではないでしょうか。
曹操そうそうは三国の統一を成し遂げることはできませんでした。

 

曹操に立ち向かう劉備と孫権

 

そしてどうして成し遂げることができなかったかというと、やはり大きな点として孫権そんけん劉備りゅうびしょくが何だかんだ手を結んだから、ということが挙げられるでしょう。

 

曹操を殴る孫権

 

そしてその二つが手を組んで曹操そうそうと戦うという道をで説いたのは魯粛ろしゅく。ある種、劉備りゅうび関羽かんうよりもよほど曹操そうそうの天下の道を阻んだのは魯粛ろしゅくとも言えるでしょう。それに気付いたからこそ、その死後に帝位に付いた孫権そんけんは、その際に魯粛ろしゅくのことを思い出したのではないかと思います。

 

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三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

因みに孫権そんけんが即位したのは229年。この時に孫権そんけんは「魯粛ろしゅくにはこうなる事が分かっていたのだ」と言ったと言います。

 

魯粛

 

そしてそれよりも遥か以前の赤壁せきへきの戦いの後、魯粛ろしゅくを迎えて感謝した孫権そんけん魯粛ろしゅくは「いつか帝位について私を迎えに来てくださいネ!」と言って周囲を驚かせていたと言います。……が、それはそれとしてまだ漢王室かんおうしつが存在しているのにこの豪放磊落というか不遜不敬というかなギリギリな発言を繰り返す人物ですね魯粛ろしゅくは。

 

三国志演義_書類

 

そんな魯粛ろしゅくの最大の謎は、この魯粛ろしゅくが苦労人気弱なお人好しにしてしまった三国志演義。やっぱりやたらめったら不遜な発言をする魯粛ろしゅくってフィクションでも「これはちょっと……」と思われたのでしょうか?

 

センさんのとぷんver1

 

とか少し笑ってしまう筆者でした。どぼん。

 

参考文献:呉書魯粛伝 周瑜伝

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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