五斗米道の教祖・張魯。張魯は民衆に対して思いやりの政治をして、数十年にわたって漢中を統治していました。張魯の漢中統治を助けたのは、張魯を支えた助言者が居たからです。
その助言者の名前は閻圃。彼はどのようなアドバイスを張魯へしていたのでしょうか。
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王になりたい男・張魯
閻圃は益州の巴郡出身の人物で、いつ頃彼に仕えたのか史料に記載されていません。ですが、閻圃は張魯が劉璋から独立した際に配下へ加わったのではないかと思われますが、正史三国志にも詳しいことが記載されていませんでした。
閻圃は張魯に仕えると功曹と呼ばれる役職を与えられます。閻圃は役人たちに対して功曹が付与されている人事権を使って、有能な役人を張魯へ推挙したり、悪さをしたりする役人に懲罰を与えたり、クリーンな政治をして張魯を補佐。
こうして閻圃は毎日仕事に邁進していきますが、そんなある日、張魯の元へ民衆から王印が届けられます。張魯の部下達は王印が発見された事を知ると「教祖様。王印が見つかったということは王様になれと天が言っているのです。どうか教祖様は天命を受け入れて、王様になられますよう」と張魯へ王になるように勧めます。
張魯は部下たちの勧めに従って、漢中の王様になろうかなと考えていました。
閻圃の適切なアドバイス!!
閻圃は張魯へ会見すると「教祖様。今漢中は民も多く豊かな土地で、漢中の周りは山に囲まれ外敵から守りやすい土地になっています。そのため、王様にならなくても春秋戦国時代に周王を助け覇者として君臨した晋の文公や斉の桓公のように後漢王朝を助ければ、彼らに匹敵する功績を残せます。
また後漢王朝を助けなくても漢中の地を維持することで、裕福な地位を捨てなくて済みます。このような状況に置かれているにもかかわらず、わざわざ王様になって外敵から攻撃を受けるような事をしなくてもいいじゃないですか。」とアドバイス。
張魯は閻圃のアドバイスを受けて、王になることを中止します。張魯は閻圃のアドバイスを採用した事で、諸勢力から攻撃を受けることなく、数十年の間、漢中の地を平穏に治めることに成功します。
すぐに降伏するのは良くない!!
曹操は赤壁の戦い後、関中一帯の独立勢力を討伐し、漢中へ向かって攻撃を開始。張魯は曹操に逆らうことなく降伏しようと考えていましたが、弟の張衛が独断で兵を率いて陽平関を守ったため、曹操と敵対することになります。
張衛は陽平関を守っていましたが、曹操軍に敗北。張魯は張衛が曹操に敗北した事を知ると曹操へ降伏する旨を伝える使者を送ろうと考えますが、閻圃のストップが入ります。閻圃は張魯へ「追い詰められた状況で曹操へ降伏しても、曹操からのあまり評価されないでしょう。
そこで一旦漢中を捨てて曹操に逆らう意思を見せてから、降伏の使者を送ったほうが曹操からの評価も小さくなく、降伏後に得られる物も少なくないでしょう」と説得。張魯は閻圃の説得に従って、漢中を捨てて曹操に反抗する姿勢を見せます。
張魯は漢中を捨てた際、家臣達から「漢中に残っている宝物や兵糧等を焼き捨てた方がいいんじゃないでしょうか」と進言を受けます。だが張魯は「漢中に残っている物はすべて国家の物だ。焼かずにさっさと逃げるぞ」と言って宝物や兵糧が入っている倉にカギをかけて逃亡。
曹操は張魯が倉にカギをかけて逃亡した事に感心し、これ以上張魯と戦いを継続することに利益が無い事を知って、降伏の使者を張魯へ送ります。張魯は曹操の降伏の使者が来ると曹操へ降伏し、侯の位と将軍の位を与えられ、賓客の礼をもって厚遇されたそうです。
もし閻圃の進言を張魯が採用しないで、曹操が陽平関を破った際、すぐに降伏していたら適当な将軍の位を与えられ、あまり高い評価を受けられなかったかもしれません。このように考えると閻圃のアドバイスが適切で時宜にかなっていたと言えるでしょう。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は適切なアドバイスをして張魯を助けた閻圃を紹介しました。閻圃は曹操に降伏した後、張魯と同様に侯の位を付与され、曹丕の時代には領地が加増され、魏の朝議にも参加するほど厚遇されていたそうです。
■参考 正史三国志魏書など