張衛は、漢中を拠点に五斗米道という宗教団体を組織した張魯の弟です。
正史三国志張魯伝によると、張衛は兄が降伏すると言ったのを聞かずに曹操と戦ったとあり、逆に正史三国志武帝紀では、張魯が張衛に命じて曹操に備えたと書かれています。
今回は五斗米道教祖、張魯の弟、張衛の人生を解説しましょう。
この記事の目次
ズバリ張衛とは?
では、最初に張衛についてザックリと解説します。
1 | 二代目五斗米道教祖、張衡の子として豫洲沛国豊県で誕生。兄は張魯 |
2 | 建安二十年(西暦215年)曹操が漢中に攻め寄せたので陽平関に籠城、全長2~3キロの城壁を建築して一度は曹操軍を撃退。 |
3 | 武帝紀では、曹操の偽の退却に引っ掛かり夜襲を掛けられて敗走。 |
4 | 張魯伝が引く魏晋世語では軍営を大シカ数千頭が通過して破壊され、その後、曹操軍の高祚と夜中に偶然遭遇。 太鼓と角笛の音を包囲殲滅の合図と勘違いし降伏。(本当は味方を呼び集める合図だった) |
以上がザックリした張衛についての解説です。ここからは、張衛についてもう少し詳しく見てみましょう。
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五斗米道二代目教祖、張衡の子として誕生
張衛は字を公則と言い豫洲沛国豊県に誕生しました。父は張衡、兄が張魯です。
張衛の祖父の張陵は、後漢騒乱の前から蜀に住み鵠鳴山中で道術を体得。道書を作成して怪しげな道術で百姓を惑わせて信者を獲得。信者に入信経費として五斗の米を出させ宗教団体の運営資金としました。そのため世に五斗米道と称されるようになります。
張陵が死ぬと子の張衡が後を継ぎますが、張衡も長くはなく兄の張魯が五斗米道の3代目教祖となります。この頃、五斗米道の勢力は漢中ではなく蜀にあった事が分かります。
益州牧劉焉は、五斗米道の勢いに目をつけ、張魯を督義司馬に任命し漢中を支配させ中央との連絡を絶とうと画策。兵を率いさせ別部司馬張脩と共に漢中太守蘇固を攻撃。張魯はその後、張脩も殺しその軍兵を奪い取りました。
この頃には、張衛もすでにいたと思いますが、これという事は史書には書かれていません。
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非凡な政治力で五斗米道の天国を築く張魯
張魯は戦争だけではなく内政にも非凡な才能を見せました。漢中を支配下におくと五斗米道を国教として祭政一致の政治を敷き、自らを師君と号します。
そして、道術の道に入った初心者を鬼卒、教えを理解し強い信仰心を得た者は祭酒として任命して県令の代わりとし、より多くの人口を修める祭酒を治頭大祭酒としました。
こうして、張魯は官僚機構を整え、行政区のポイントには義舎と呼ばれる駅亭を置き、義舎には米と肉を置いて旅人が食べ過ぎない程度に食す事を許し、旅の安全を確保します。さらに国家イデオロギーとして、心にやましい事があると病気になると民衆に教え、誠実で嘘をつかない事を奨励。
病気になった時にはそれまでの罪を懺悔させ、罪を犯した時も三回までは赦し、それでも罪を犯すと刑に処すなど独特の政治体制を取りましたが、統治は公平であったので漢中は立派に治まり、五斗米道の王国は30年も続こうとしていました。
曹操の侵攻に張衛が反撃
国力に自信をつけた張魯は、次第に益州牧の劉璋の命令を無視するようになり、怒った劉璋は人質に取っていた張魯の母と家族を殺します。これに張魯も激怒し、益州との関係は最悪になりました。
しかし、張魯の脅威は南ではなく北からやってきます。
建安二十年(215年)潼関の戦いで馬超と韓遂の連合軍を撃破し、関中を平定した曹操が、五斗米道王国に引導を渡そうと大軍を率いて進撃してきたのです。
正史三国志張魯伝によると、曹操は散関より武都に出てこれを征服し陽平関に至りました。張魯は抵抗しないで漢中を挙げて降伏しようとしますが、弟の張衛が納得せず、軍兵数万で関を固く守って防ぎました。曹操はこれを撃破し、漢中に入ったと書かれています。
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武帝紀ではイイトコなし張衛
一方で正史三国志武帝紀の記述では、もう少し張衛の活躍が描かれます。建安二十年3月、曹操が張魯を征服しようと陳倉に至り、武都から氐の土地に入ろうとします。氐人は道を塞いだものの張郃と朱霊が先鋒となり撃破します。
同年4月、曹操は陳倉より散関に出て河池に至りますが、氐王竇茂の軍勢は1万余りで地形が険しいのを頼みに降伏しなかったので、曹操軍は竇茂を殺し7月には陽平関に到着しました。
張魯は、弟の張衛に将軍楊昂・楊任を率いさせて陽平関に陣取らせ、山を横断して築城する事2~3キロ余りになり曹操は砦を抜けずに軍を率いて帰還します。
張衛は曹操の退却を知ると守備兵を解散させますが、曹操は、退却を止めて密かに解剽、高祚を派遣。砦を乗り越えて夜襲を掛け将軍の楊任を斬りました。
勢いに乗った曹操軍は進んで張衛を攻めたので、張衛らは夜に紛れて逃走し、張魯は潰走して巴中に逃げ込みます。こうして曹操軍は南鄭に入城し、張魯の宝物を全て獲得しました。
武帝紀で読むと張衛は、曹操の偽の退却も見抜けずに守備兵を解散する凡将という扱いです。
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