なぜ趙雲は劉備に仕えたのか?損得勘定の心理とは無縁の忠義の漢?


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常山(じょうざん)趙子龍(ちょうしりゅう)と言えば、白馬に乗った青年の熱血武将をイメージします。

しかし、kawausoはいつも不思議でした。

冀州(きしゅう)()であり、公孫瓚(こうそんさん)に属して特にヘマをしたわけでもない趙雲は、どうして将来性ゼロの劉備についていく選択をしたのでしょうか?

もしや、二人は損得(そんとく)を超えた禁断の関係にあったのか、、その辺りの事を正史三国志や趙雲別伝から考えてみます。

 

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袁紹にも公孫瓚にも興味がない趙雲

五虎大将軍の趙雲

 

趙雲についての詳細は、正史三国志の記述と、それよりも詳細な裴松之(はいしょうし)が補った趙雲別伝があります。

こちらの趙雲別伝については、趙雲の子孫が祖先を持ち上げる為に、功績を盛って書いた雰囲気がないでもありませんが、

正史と共通する部分もあるので、今回はそのまま使います。

裴松之(歴史作家)

 

趙雲別伝の記述によると、趙雲はすぐれた体格と容姿をしていたので常山郡に挙げられ、義従(ぎじゅう)の吏兵を率いて公孫瓚に与したとあります。

義従というのは騎乗して弓を装備した兵の事で、それも吏兵なので、これは常山郡の常備兵力ではないかと推測します。

吏を率いているのですから、趙雲も平民とは思えず、何かの地位にあったのでしょう。

苦笑いするしかなかった公孫サン(公孫瓚)

 

当時、冀州(きしゅう)の人材は軒並み袁紹(えんしょう)になびいていて、公孫瓚は内心焦っていましたがそこに趙雲が馳せ参じたので、

随分喜んで趙雲に軽口を叩いていますが

「袁紹が冀州の支配者に相応しくないと思うから、あなたを選んだだけで、別にあなたを慕ったわけではない」と趙雲にピシャリと言われています。

趙雲は、公孫瓚にも袁紹にも関心は無かったようです。

 


 

地獄の戦場で劉備と出会う趙雲

三国志のモブ 反乱

 

さて、西暦191年、公孫瓚は青州刺史に任命した田楷(でんかい)が袁紹に攻められると劉備を援軍に派遣しました。

この時に趙雲も劉備の主騎(しゅき)(旗本)として従ったと正史三国志趙雲伝にあります。

ところが、この戦場は地獄であったようで、戦いは二年間にも及び、備蓄した食糧を使い果たし、士卒は疲れ果て、

両軍共に百姓から食糧を強奪青州は荒廃してしまったと書かれています。

餓えた農民(水滸伝)

 

結局、田楷は敗れてしまい青州は袁紹の長子の袁譚(えんたん)の領する所になります。

もちろん、劉備も趙雲も地獄絵図から逃れる事は出来なかったと推測します。

命がけの戦場で、共に助け合って生き抜く間に、劉備と趙雲の間は、急速に親密になっていったでしょう。

 

特に趙雲は、袁紹よりマシと考えて従軍した公孫瓚が袁紹同様に、民衆から略奪する様を見て、完全に愛想を尽かしたとも考えられます。

二人で公孫瓚の悪口を言い合い、地獄の戦場で支え合う内に、劉備と趙雲には、男の友情を超えた愛情が芽生えたのではないかと思います。

男女でも「つり橋効果」というのがあるように、極限状態で培った友情は、そう簡単に切れるものではなくなるものです。

お互いに歌を交わす趙雲と劉備

 

この後、趙雲は兄が死んだので喪に服すため、公孫瓚の陣営を出ていきますが劉備は「二度と趙雲が帰らない」と思い

趙雲の手を執って別れたと趙雲別伝にはあります。

親密ですよね、手に手を執って別れるなんて、、まるで恋人同士じゃないですか・・

 

【劉備の兄貴分の真実の姿を大紹介】
公孫瓚特集

 

鄴で再会する二人、親密度はピークに

趙雲と劉備が初めて出会うシーン

 

その後、劉備は公孫瓚の命令で田楷と共に、曹操に攻められている陶謙を救いにいき陶謙も、劉備は見込みがあると思ったのか、

主力の丹陽兵四千を劉備に与えます。

この厚遇に「これからは陶謙だな」と内心思った劉備は田楷に別れを告げて陶謙の客将扱いになり、しかも陶謙が病気で亡くなる前に

後継者に指名されます。

 

ここから先は、趙雲と再会するまでの劉備の忙しい立ち回りを書くので興味がない人は※部分を読み飛ばして下さい。

 

※劉備は、首尾よく陶謙の跡を継いで徐州牧になりますが、揚州の袁術と争い途中で引き入れた呂布に裏切られて徐州を奪われてしまい、

再起を図ろうと呂布に反旗を翻すも計画が漏れて敗れ、曹操を頼って逃げていきます。

劉備と曹操

 

やがて、劉備は曹操暗殺計画に加わり、事件が発覚する前に袁術討伐の為に朱霊と共に軍を率いて曹操の支配下を脱出します。

曹操と袁紹の戦いのどさくさで徐州を奪還しようとしますが失敗、今度は、袁紹の下に転がり込みました。※

 

こうして、袁紹の客将として鄴に駐屯していた劉備を尋ねてきたのが趙雲です。

西暦200年頃ですから、7年位は別れていた事になりますね。

趙雲と劉備

 

趙雲別伝によると再会した二人は、同じベッドで寝るほどの親密ぶりであり、劉備は、趙雲を密かに募兵に遣わして数百人を集めています。

どうして、趙雲に募兵させたかと言うと、袁紹に見切りをつけてとんずらするつもりだったからです。

劉備の動きに袁紹は気づかず、劉備は趙雲を伴い(もちろん関羽や張飛も)荊州の劉表を頼って逃亡していきます。

 

怒り方が尋常ではない劉備

劉備の黒歴史

 

さて、趙雲別伝によると劉備が戦に負けた時、ある者が趙雲はすでに北に去ったと劉備に報告した事がありました。

これを聴いた劉備は激怒し、手戟(しゅげき)(手槍)をその者に投げつけて「趙雲は、俺を捨てて逃亡などしない」と叫んだそうです。

間もなく、趙雲は劉備の言う通りに帰って来たのですが、でも、ちょっと怒り方が尋常じゃないですよね?

 

手槍を部下に投げつけたんですよ、刃があたったら大惨事です。

呂布

 

余談ですけど、その昔、董卓(とうたく)の機嫌が悪い事があり、癇癪(かんしゃく)を起して呂布に手戟を投げつけた事があります。

呂布は、ああいう男なんで肥満した董卓の手戟など簡単にかわし慇懃(いんぎん)に陳謝して場を治めましたが、それ以来董卓を密かに恨んだとあります。

でしょうね、刃物を投げつけられたんですから・・

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

劉備は董卓と同じ事をしているわけですが、これ、お前の彼女が浮気していたぞと人に言われた時の反応に似ているとは思いませんか?

劉備は趙雲が逃げたと聞いた途端に頭に血が上り、我を忘れて、その場にあった手戟を反射的に投げつけたのです。

趙雲を激しく愛していないと出来ない事でしょう・・


劉備の家族を最優先し、縁談を蹴る趙雲

曹操軍の輸送車を襲う趙雲

 

劉備と趙雲の愛の絆は、とんでもなく堅いものでした。

何しろ、正史三国志における趙雲唯一の手柄と認められる長坂(ちょうはん)の戦いでは、趙雲は劉備の家族を守り、阿斗(あと)を懐にいれて騎馬で駆け、

甘夫人(かんふじん)まで保護して無事に帰還した事が記録されています。

 

また、趙雲別伝では、赤壁の戦い後の南郡平定時に、趙雲は偏将軍(へんしょうぐん)として桂陽(けいよう)を平定し、趙範(ちょうはん)に代わり太守になりますが、

趙範が自分の(あによめ)で未亡人の樊氏(はんし)を奥方へと勧めると「互いに同姓であり、汝(趙範)の兄は、我が兄である」と言い縁談を辞退しました。

この樊氏は傾国の美女であり、周囲も、折角の縁談なんだからと色々勧めるのを全部断っています。

その後、趙範は桂陽から嫂を連れて逃げてしまいますが、趙雲は少しも惜しそうではなかったそうです。

劉備の下で働くと決めた趙雲

 

これを見ると、趙雲は趙範を信じていない事もあるでしょうが、愛する主君劉備と、その家族を守る事が自分の使命であり、

今は、嫁など取って命を惜しむようになってはいかんという一途な思いがあったように思えるのです。


三国志ライターkawausoの独り言

 

なぜ趙雲は劉備に仕えたのか?その答えは友情を超えた愛だと思います。

青州での、二年間の飢えと死の恐怖を共に耐え抜いてきた劉備と趙雲には、同じベッドで寝るような一心同体の連帯感があった。

それは友情を超えて、男同士に芽生えた愛だったのだと考えたいです。

あ、それは肉体関係があると断定しているのではなく、あくまでプラトニックなものだと思いますけどね。

 

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赤壁の戦いを斬る!赤壁の戦いの真実
赤壁の戦い

 

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コメント

  • コメント (1)

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    • 石川周平
    • 2019年 9月 01日

    興味深く読ませていただきました。
    特に「極限状態で培った友情は、そう簡単に切れるものではなくなるものです。」というご指摘に感銘を受けました。
    曹操も曹洪に死ぬか生きるかという極限状態で助けられましたが、曹操は曹洪に深く感謝したと言います。

    ただ曹操は基本的に部下には心を許していなかったと思います。
    荀彧のように部下とはいえいつ敵になるかわからないからです。

    その点劉備は部下に心を許すタイプだったと思います。劉備はお人好しではありませんから、もちろん部下が敵になる可能性があるのを知ったうえでです。孔明に「国を奪うがよい」と言ったのは「敵になってもしかたない。それでも私と孔明との関係は変わらないよ。」という意味だと思います。孔明はそれに感激して、その後劉禅に忠誠をつくし続け、自分に鞭打つように働いて過労死したと私は考えています。

    劉備と趙雲が同じ床で寝るというのも、趙雲に心を許している証拠だと思います。
    あくまで心を許しているのであって、体を許しているわけではありませんが(笑)。




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