孫策は呉(222年~280年)の孫権の兄です。26年の短い生涯でしたが、父の孫堅と一緒に呉の基礎を固めることに成功しました。
さて、孫策は他者からどのような評価を受けていたのでしょうか?
今回は孫策の評価について解説いたします。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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陸康の評価
陸康は揚州の名門の出身であり、また親族には後に呉の丞相となる陸遜がいました。陸康はかつて、孫策が直接面会を求めた時に相手をするどころか、部下に応対をさせました。この陸康の人を見下した態度が孫策の怒りを買います。
興平元年(194年)に兵糧問題で袁術と陸康は仲違いします。これをチャンスと見た孫策は袁術から命令を受けると陸康を攻撃して陸家の人々を壊滅寸前まで追いやりました。昔のちょっとした怨恨が、これほどになるとは恐ろしい・・・・・・
ところで陸康はなぜ孫策を軽蔑していたのでしょうか?
自称孫武の末裔は説得力不足!?
理由は孫策の父の孫堅にあったと考えられます。孫堅は春秋時代の兵法家の孫武(孫子)の末裔と称していました。
ただし正史『三国志』の著者である陳寿は、上記の件に関しては「おそらく孫武の末裔だろう」と断定しておらず、確信が持てない推測をしています。そもそも孫武という兵法家は『史記』には登場するが『春秋左氏伝』に出てこないため、昔から日本・中国でも実在を疑われています。
陸康は孫堅や孫策が実在しているか分からない孫武の末裔と自称していたので、「なんだ、こいつら?変な連中か?」と心中では考えていたのでしょう。そのため、孫策に対して冷たい態度をとったのです。
袁術たちの評価
けれども、孫策をマイナス評価ばかりしている人が多くいるわけではありません。なんと、袁術や彼の配下がプラス評価しているのです!
初平2年(191年)に袁術から荊州の劉表討伐の命令を受けた孫堅でしたが戦死。享年37歳の若さでした。
残された息子の孫策は部下の呂範と孫河、母の呉夫人と一緒に、親族の呉景を頼って兵を募集していました。ところが、宗教指導者の祖朗が一揆を起こして孫策を敗走させます。この時に孫策は危うく討ち死にするところでした。
しかしながら孫策軍は、ほぼ全滅・・・・・・
独立維持不可能と考えた孫策は、興平元年(194年)に父の知り合いである袁術を頼ります。袁術配下の喬蕤と張勲は孫策と会見すると、「素晴らしい!」と尊敬しました。
また、袁術も「私も孫策のような息子がいれば、死んでも思い残すことはないのになあとコメント。どんだけ、袁術政権に気に入られているんでしょうか・・・・・・
孫策ってどんな人柄?
そもそも孫策ってどんな人柄だったのでしょうか?というより、袁術たちは孫策のどこに魅かれたのでしょうか?孫策の性格に関しては幸いにも陳寿が記録を残していました。
「孫策は容姿端麗であり、心が広くて話も聞き上手。また、人使いも上手だった。だから、部下や民で孫策にあったら心尽くさない者はいなかった」まさに誰もが憧れる理想の完璧超人男子!ライト・ノベルの主人公のような感じもしますけど、おそらく袁術たちは孫策の分け隔てなく接する態度を気に入っていたのでしょう。
三国志ライター 晃の独り言
孫堅・孫策は孫武という実在性に乏しいものを末裔に使用したことから、最初は揚州の人々の信用を得れませんでした。
どうして孫堅は孫武なんて末裔にしたのでしょうか?
筆者は少し考えてみました。
・・・・・・考えてみれば三国時代以前に孫武以外に「孫」の名字が付く著名人はあまりいません。
筆者が知っている限り、孫臏ぐらいです。そうしてみると、やはり考えつくものが無かったから孫武にしたのでしょうかね?
※参考文献
・石井仁「富春孫氏考―孫呉宗室の出自をめぐってー」(『駒沢史学』70 2008年)
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