趙雲は劉備の義兄弟関羽・張飛に匹敵する勇将で、長坂の戦いで曹操軍の大軍へ単騎で突っ込み劉禅を救出する活躍を見せます。
趙雲は漢中争奪戦の時、曹操軍の大軍と数十騎で遭遇しますが、臆することなく曹操軍へ突撃し、見事退却することに成功。趙雲はこのように色々な戦で活躍をしてきた人物ですが、晩年はどのように過ごしていたのか。今回は趙雲の晩年について紹介したいと思います。
「趙雲 晩年」
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劉備・劉禅に仕えた勇将の年齢は!?
劉備軍には関羽や張飛、黄忠、馬超など歴戦の将軍が揃っていました。ですが、劉備が夷陵の戦いで亡くなると上記で紹介した歴戦の将軍達も次々と亡くなってしまいます。趙雲は劉備死後も生き残り、蜀の二代目皇帝・劉禅へ仕え蜀の為に力を尽くしていきますが、一体何歳だったのでしょうか。
趙雲の生まれた時期が不明で詳細は分かりませんが、それなりに歳をとり、晩年と言っていい時期に差し掛かっていたのではないでしょうか。
ここでは趙雲が劉禅に仕えた頃を晩年と仮定してお話を進めていきたいと思います。
晩年も戦ばかり!?
蜀の二代目皇帝・劉禅を補佐した諸葛孔明。
彼は南蛮制圧を完了して、蜀の国力増加に成功すると、魏を討伐するため、北伐を開始します。諸葛孔明は魏延や馬岱、呉懿など歴戦の将軍を引き連れて出陣。晩年を迎えていた趙雲も諸葛孔明の北伐軍へ従軍し、出陣することになります。
勇将は晩年になっても活躍!!
諸葛孔明率いる蜀軍の本隊は祁山へ向けて進軍。趙雲は諸葛孔明率いる蜀軍本隊と共に従軍せず、箕谷方面へ出陣してきた魏の曹真率いる大軍を迎え撃つため、鄧芝と共に別動隊を率いて出陣します。
趙雲率いる蜀軍は曹真軍と比較して少数だったため、曹真軍の攻撃を受けて敗北してしまいます。しかし、趙雲は曹真軍に大敗北したわけではありません。趙雲は自ら殿をした事で軍需物資を失わず、蜀軍の損害も最小限の被害で食い止めます。
その後趙雲はしっかりと守りを固めて、曹真軍の益州侵入を阻んで退けることに成功します。
高潔な武人!!
諸葛孔明は馬謖が要衝・街亭を守り切れず、敗北してしまった為蜀軍全軍も退却。諸葛孔明は益州へ帰還すると趙雲が率いて軍勢が曹真軍に敗北しながらも軍需物資や兵士達をあまり失わずに帰還していた事を知ります。
諸葛孔明は鄧芝を招いて「どうして別動隊は損害がこんなに少ないのだ」と尋ねます。すると鄧芝は「趙雲将軍が殿を担ってくれたため、物資を捨てず、兵士もまとまりを失うことなく帰還することが出来たのです。」と報告。
諸葛孔明は鄧芝から事情を聴くと趙雲を招いて「将軍のおかげで物資と兵士を失わずに済みました。将軍麾下の兵士達へ物資の中にあった絹を与えたいと思います。」と褒賞を与えようとします。すると趙雲は「丞相。我らは魏軍に敗北したのですよ。どうして絹を与えようとするのか。与えようとしている絹は倉庫に入れて保管しておくべきです。
褒賞として兵士達へ与えるのではなく、冬になったら兵士達へ分け与えるのがいいでしょう」とアドバイス。諸葛孔明は趙雲のアドバイスを聞いて大いに喜び、彼を褒めたたえたそうです。
このように趙雲は褒賞を与えると言われても、しっかりと筋を通して受け取らない高潔な人物でした。
三国志ライター黒田レンの独り言
蜀では偉大な人物が死後に諡号を追贈されたのは、たった12人しかいません。
最初に追贈されたのは法正です。彼の諡号は亡くなってすぐに送られます。その後劉禅の時代になって諸葛孔明や関羽・張飛ら10人が次々に諡号を追贈。
そして趙雲もこの追贈された12人の中に入っており、追贈された諡号名は「順平侯」だそうです。ついでにこの順平侯の諡号は「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を順。仕事に秩序があり、災禍・動乱を平定するのを平と称す。」の意味が込められているそうです。
この諡号を選んだのは姜維で、彼が趙雲を尊敬した事がうかがえるのではないでしょうか。
■参考文献 正史三国志蜀書
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