「呉下の阿蒙に非ず」という言葉から分かるように、知力を磨いて呉に欠かせない武将に成長した呂蒙。
この言葉は魯粛との議論で言われた言葉とされていますが、魯粛と呂蒙、孫権はどちらを評価していたか皆さんは知っていますか?
今回は孫権の魯粛と呂蒙の評価について、二人の蜀への対応策を考えながら説明していきたいと思います。
「呂蒙 知力」
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呂蒙への孫権の評価
実は孫権は、魯粛と呂蒙では呂蒙の方を評価していました。
それは陸遜との会話の中に表れています。
孫権は陸遜との会話の中で「呂蒙は言論の渙発さでは周瑜に及ばずとも、これに次ぐ者と言える。関羽を捕らえた事においては魯粛に勝る」という評価をしているのです。これは魯粛の死後の会話ですが、少なくとも荊州対策に関して孫権は魯粛よりも呂蒙の采配を評価していたように取れますね。
つまり荊州対策に関して孫権は魯粛よりも呂蒙を評価していたということになりますが、どうしてこうなったのか?この二人の評価の分かれ目を探っていきましょう。
魯粛の対劉備戦線とその後を継いだ呂蒙
赤壁の戦いで呉と劉備の共同戦線で曹操を破ると、劉備は荊州の督の役職を孫権に求めました。これには周瑜たちが反対しましたが、魯粛は曹操に対抗するためには劉備に力を与えておくべきと考え、孫権は最終的に魯粛の考えを受け入れて劉備に荊州を貸すことにしました。
このことから魯粛は曹操の対抗策として、言い方は悪いですが劉備を利用するつもりである程度の力を付けさせます。
しかし皆さんご存知の通り、劉備は荊州を孫権に返さず、劉備に荊州を任された関羽との呉の軋轢が始まっていきます。そして魯粛の死後、後を継いだ呂蒙は対関羽戦線を打ち立てていくのです。
魯粛は決して劉備の信望者ではない
ここで誤解して欲しくないのが、魯粛は劉備の信望者ではないということ。
魯粛は劉備に力を与えさせるように取り計らうことから、そしてそれが結果的に呉の悩みの種に成長してしまうことから「魯粛は劉備の信望者で呉の利益よりも劉備に力をつけることを優先している」と誤解している人がたまにいますが、それは間違いです。魯粛はあくまで劉備に力を付けさせ、利用することが目的です。
その説明になるのが「呉下の阿蒙に非ず」のシーン。このシーンは魯粛が呂蒙に意見を求め、お互いに議論するシーンですが、この議論内容は荊州奪還に関するもの、関羽対策を話し合っているのです。
また荊州返還であることを求める「単刀赴会」では「お互いの兵馬を百歩離れた場所に待機させて」「関羽、魯粛の双方とも太刀をもっていた」とあるように、関羽も魯粛も戦争不可避の気概で望んでいます。
これらから分かるように、魯粛もしっかりと関羽に、そして劉備に対する対策を戦争覚悟で考えています。なので魯粛は決して劉備の利益だけを考えている訳ではないのですね。
魯粛と呂蒙、孫権の評価の分かれ目はどこ?
では魯粛と呂蒙、孫権の評価が分かれているのはどこからか?
と言えば、やはり荊州対策からではないかと筆者は考えます。
魯粛のあくまで利用するために劉備に力を付けさせた、そのやり方は実際には孫権には理解されていなかったのではないかと思います。
「不満はあるが魯粛が言うなら……と荊州を渡したらあれよあれよと力を付けるわ、返還しないわ、やりたい放題じゃないか!」という不満が魯粛の死後噴出して、それを対応してくれたのが後を継いだ呂蒙、という公式ができあがったのです。
これだけ見ると魯粛は結果的に呉に不利益をもたらしましたし、呂蒙はその不利益の最たる関羽を討伐してくれた訳ですからね。これが孫権の二人に対する最終的な評価に表れた訳で、魯粛がもっと長く生きて関羽対策までしっかりやり遂げられればまた違ったと思います。
三国志ライター センのひとりごと
今回は呂蒙、そして魯粛に関する孫権の評価に注目してみました。
色々と述べましたが、筆者は魯粛はもっと評価されても良い武将の一人と思っています。ただし魯粛の策はあくまで先を見据え過ぎていた、そしてその先にまで魯粛が生きていなかった寿命の問題、何よりも三国志演義でどうにも関羽にやり込められてしまう引きたて役のような扱いからまだまだ魯粛の評価は低いように思えます。
あの劉備さえも利用しようと考えた、また関羽と戦う覚悟を持っていた魯粛の豪胆さをもっと色々な人に知って欲しいですね。
参考文献:
呉書 周瑜伝 魯粛伝
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