龐統は劉備の軍師の1人です。諸葛亮が「伏龍」と呼ばれるのに対して、龐統は「鳳雛」です。蜀(221年~263年)建国後は諸葛亮と一緒に北伐で魏(220年~265年)と戦うはずでした。
しかし、建安19年(214年)に益州の劉璋との戦いで流矢に当たり討ち死にしました。龐統は5年間しか劉備に仕えていないので、その実力については不明な点が多いです。
実は龐統は人物鑑定に優れていました。今回は龐統の人物鑑定の実力について解説します。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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龐統のべた褒め戦略
龐統は若い頃、顔も身なりも良くなかったので評価する人もいませんでした。だが、20歳の時に人物鑑定に優れている司馬徽と話し合います。司馬徽は桑の木に登って、龐統は木の下で昼から夜まで楽しく話し合いました。
上記の結果、司馬徽は龐統を只者ではないと認識して高い評価を与えます。司馬徽のように人物鑑定に優れた人を後漢(25年~220年)独特の用語で「知人」と言います。こうした「知人」の周辺にはいつも人物鑑定を行うグループが出来ていました。
さて、評価を受けた龐統は役人になりますが司馬徽と同じように人物鑑定が好きだったので、自身の鑑定で人を抜擢していました。ところが、鑑定内容が本人の力量とかけ離れているので不審に思った人が「これは変じゃないですか?」と尋ねます。
すると龐統は「今は乱世で善人が少なく悪人が多い。そんな時に良い政治をしようと願ったところで、大げさに誉めてやらないと誰もやる気なんて出ないよ。10人抜擢して5人失敗しても、半数は成功していると考えるべきだ」
今の人材活用術に通じる考えです。すでに後漢末期から使用されていたなんて驚きでした。
周瑜の葬式での人物評価
建安15年(210年)に呉(222年~280年)の周瑜が36歳の若さでこの世を去りました。小説『三国志演義』では諸葛亮が葬式に向かっていますが、実際に行ったのは龐統です。
龐統のことを知っていた陸績・顧劭・全琮が龐統に面会します。そこで龐統は3人の人物鑑定を行いました。まず陸績については「足の遅い馬のようだが、正体は駿馬」要するに才能が劣っているようだが、実はとんでもない逸材。
次の顧劭は「鈍牛だが重荷を背負って遠くまで行ける」つまり、見た目は鈍そうだが国家を背負える人材。最後の全琮は「施しを好んで名声を求めているので、汝南の樊子昭に似ています。智力は多くないですが、時代を代表する人物です」見た目はノーマルだけど、実はスゴイ。さっきの2人と一緒です。
評価を受けた陸績と顧劭は龐統にお礼を述べて見送りました。
お礼を言いにくい全琮?
残念ながら龐統の鑑定通りにはいきませんでした。顧劭は建安19年(214年)に31歳で、陸績は建安24年(219年)に33歳の若さでこの世を去りました。2人とも呉の建国を見ることは出来ませんでした。
さて、残った全琮は孫権の外戚(=皇帝の一族)になったり、戦で功績を挙げたりしたので龐統の鑑定通り時代を代表する人物になります。
ただし、不思議なことに全琮は龐統が去る時にお礼すら言いません。
なぜでしょうか?
筆者は龐統が例えに出した「樊子昭」という人物にあったと考えています。
魏の劉曄によると樊子昭とは、商人から成り上がった官僚であり清廉潔白な人物として知られていたようです。だが、同じく魏の蔣済は、「清廉潔白なのは間違いないが、歯ぎしりはする、頬の肉をピクピクさせる、口角あわは飛ばす・・・・・・」と証言しています。
要するに顔に出るタイプの人物です・・・・・・
龐統から鑑定された全琮は「俺って褒められているのかな、それともいじられているのかな?」と疑問に思い、お礼が言いにくかったのではないのでしょうか?
いじられるのも愛情だと筆者は思いますけどね(笑)
三国志ライター 晃の独り言
以上が、龐統の人物鑑定に関しての解説でした。
最初に書いた龐統と司馬徽の桑の木での対話に関して、20世紀の中国の学者である盧弼は「どこの世界に桑の木に半日以上も乗っているやつがいるか?話をするなら下りてしゃべるに決まっている!」とマジのツッコミを入れています。
おっしゃる通り、ずっと座り続けているとお尻が痛くなりますからね。
でも、マジで突っ込む人がいたなんて驚きです・・・・・・
調べてみると盧弼は『三国志集解』という書物を執筆したことで有名でした。これは20世紀初頭の先学の研究を集めた研究書であり、三国志研究者のバイブル!
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※参考文献
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
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