曹丕は魏(220年~265年)の初代皇帝です。文帝とも言いますが、曹丕が有名ですのでこの記事では曹丕で通します。
曹丕の一般的なイメージは「冷静」・「沈着」という感じです。これはおそらく、曹植との後継者争いや妻の甄夫人を自殺に追い込んでいることから連想するのでしょう。
ところで陳寿は曹丕にどのような評価をくだしていたでしょうか?
今回は正史『三国志』から陳寿から見た曹丕評価を解説します。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
「曹丕 評価」
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陳寿のマイナス評価 官吏登用法の失敗
正史『三国志』の執筆者である陳寿は曹丕に関して次のコメントを残しています。
「曹丕は文学の才能を持っており、筆を持てばスラスラと文章になる。広い知識と記憶力に優れているし、多方面にわたる才能を持っていた。だが、もう少し広い度量と公平に努めていれば、古の君主も及ばなかったよね」
要するに文学の才能はあるけれど、少し度量が狭く公平さに欠けた君主である、と陳寿は言っているのです。陳寿は曹丕に対しては厳しい評価をしています。
マイナス評価の部分は何か?
このマイナス評価は何が理由でしょうか?
筆者はおそらく、曹丕の時代に制定された「九品官人法」にあると見ています。
九品官人法とは曹丕在位中に部下の陳羣が制定した官吏登用法です。地方に中正官という役人を派遣して彼らが管轄区域の人物を面接して、一品から九品まで等級をつけて出仕させます。
聞くと「結構いいじゃない」と思うかもしれませんが、この登用法は1度でも等級が決まるとその家は破産するまで、ずっとその等級であり、子や孫になっても変わることはありません。
また、中正官に高額な賄賂を送る家柄ほど有利な評価をしてもらえたので、貧乏な家柄には不利でした。この制度は隋(581年~618年)が科挙(公務員試験)を制定するまで続けられました。おかげで人々は不公平な人事に悩まされたのです。
陳寿の生きていた西晋(280年~316年)は九品官人法が盛んな時代であり、「等級が上の者は貧乏がおらず、下は金持ちがいなかった」という名言が出るほどでした。陳寿が曹丕に対してマイナス評価をした理由は、九品官人法を定めたことで、公平な人材確保が出来なかったからと考えられます。
陳寿のプラス評価 文学に対する情熱
しかし、陳寿だってマイナス評価ばかりしているわけではありません。曹丕の文学に対しての情熱は認めていました。
彼は父の曹操と弟の曹植、さらに建安七子(孔融・陳琳・王粲・徐幹・劉禎・応瑒・阮瑀)と一緒に詩文を書いています。彼らの特徴は、それまでの堅苦しい儒学的価値観にとらわれずに新しい詩文を創ることです。
曹丕が生涯で自分で作った作品は100篇以上にもなっており、部下にも経典と注釈を編集・分類に従って並べさせます。作品集の名前は『皇覧』。残念ながら『皇覧』は散佚しており現在は内容が分かっていません。おそらく残っていたら、非常に価値の高い書物でした。
また、胡沖という人物が執筆した『呉暦』によると曹丕は『典論』という書物を執筆しています。中身は文学評論書です。これもほとんど散佚しており、現在はわずかしか見ることは出来ません。曹丕は『典論』完成後、孫権と張昭に与えて呉(222年~280年)との友好の証にしています。
確かに曹丕は文学に対しては、尋常ではない情熱があったようです・・・・・・
陳寿もおそらく、「こんな文学オタクは見たことない。俺も負けたよ」と思って、文学に関してはプラスの太鼓判を押したのでしょう。
三国志ライター 晃の独り言
以上が陳寿の曹丕評価の解説でした。
よく曹丕は親に認められたいから頑張っていたという設定がゲームでは使われますが、正史『三国志』を読み直すと、曹丕が文学に一心不乱に情熱を傾けていたマニアと分かりました。
その曹丕の気持ちは筆者に非常に分かります。筆者も中国史に対しての情熱は誰にも負けないマニアと認識しています。!
もちろん、この「はじめての三国志」の読者の皆様だって一緒です。
※参考文献
・狩野直禎『「三国志」の世界 孔明と仲達』(清水書院 1984年)
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